1997.7.1
お断り:この報告は出席者山根政則が本日までに入手し得た資料にて編集したもので「路面電車と都市の未来を考える会(岡山)」による正式報告書ではありません。 後日別途発表されるはずです。

目次

  1. 日程
  2. サミット本会議討議内容(抄訳)他
  3. 第1分科会 LRT部会(LRT時代の幕開け、その可能性と課題)
  4. 第2分科会 コミュニティ部会(高齢化社会の交通と都市コミュニティを考える)
  5. 第3分科会 都心活性化部会(都心活性化に果たすトランジットの役割)
  6. サミット宣言書
  7. 会議関連写真集

日程

サミット本会議
  • 日時:1997年(平成9年)5月31日(土) 10:15〜12:45
  • 会場:ホテルグランヴィア岡山
  • 挨拶:全国路面電車愛好支援団体代表理事 岡 将男 
          (RACDA:路面電車と都市の未来を考える会会長)
       全日本軌道連絡協議会専務理事 中尾正俊 (広島電鉄(株)取締役電車部長)
  • 議事進行:岡 将男 (RACDA:路面電車と都市の未来を考える会会長)
  • 会議内容 1) LRT報告(熊本市)
           2) 各都市の現状報告
           3) 宣言書、その他審議
           4) 議題審議
           5) 建設省、運輸省: 都市と公共交通施策について
  • 参加者: 愛好支援団体・事業体代表約70名(傍聴者含め約330名)
分科会
  • 日時:5月31日 14:00〜15:30
  • 会場:同所
  • 会議内容:
    第1分科会 LRT部会(LRT時代の幕開け、その可能性と課題)
    第2分科会コミュニティ部会(高齢化社会の交通と都市コミュニティを考える)
    第3分科会 都心活性化部会(都心活性化に果たすトランジットの役割)
サミット宣言採択および分科会報告
  • 日時:5月31日 15:40〜16:30
  • 場所:同所
歓迎レセプション
  • 日時:5月31日 17:30〜19:30
  • 場所:同所
路面電車サミット記念「京橋朝市」全国朝市フェア
  • 日時:6月1日(日) 6:00〜10:30
  • 場所:京橋周辺旭川河畔
エクスカーション
  • 築城400年を記念して岡山城、後楽園周辺の散策と京橋朝市見学
  • 日時:7:00〜9:30
「路面電車が変える」世界と日本の路面電車展
  • 日時: 5月30日、5月31日、6月1日
  • 場所:岡山駅1Fイベントホール
  • 構成:「世界の最新路面電車」等、写真、パネル展示
        路面電車の模型ジオラマ「近未来の岡山」展示
        低床車によるバリヤフリー乗降体験コーナー
        世界の路面電車ビデオの放映
記念フォーラム「路面電車で変わる日本の街づくり」
  • 日時:6月10日 18:00〜20:30
  • 場所: 岡山県総合福祉会館大ホール
  • 定員: 450名

サミット本会議

LRT報告(熊本市交通事業管理者 行徳 健次氏)

(LRT報告はNiftyFTRAINE「路面電車の明日を考える#00295」服部重敬氏の報告「サミット報告1」を転載したものです。 なお山根が若干補足しました。)
  • 熊本市は人口66万人、政令指定都市を除くと全国2番目の中核都市で、加藤清正による城下町の建設に始まり、大正11年〜13年にかけての市電、上水道、歩兵23連隊移転という三大事業により、都市の近代化、市街地の整備が進められた。
  • 大正13年8月に路線長6.9Kmで開業した路面電車は、昭和38年の最盛期に路線長25Km,系統数7、車両数90両、一日当り11万6千人の規模に達したが、モータリゼーションの到来によって昭和47年にかけて路線を順次縮小、昭和54年には全線廃止の予定であったが、オイルショックなどにより廃止の見直しが行われ、昭和54年には存続が決まっている。
  • 以後、設備の改善が進められ、日本初の冷房車の導入、軌道敷内自動車通行禁止、昭和57年にこれも日本発のインバータ電車の導入が行われ、これによって平成元年以降は乗客の増加に転じ、なかでも東部からの路線は朝2分半間隔の運転を行なっている。交通渋滞のバスよりスピードが早い事から、バスから乗り換える乗客すら見られるようになっている。(解説にはスライドが使用され、特にLRT車については車体外観、内装、車内の形状、広幅の乗降口の様子などが詳しく説明された)
  • 報告の後、深夜に試運転中のビデオが上映された。 終電後の撮影なので人通りもなくなり緊張感が感じられた。
  • 出席の各愛好支援団体代表より「大事に育てて欲しい」の発言が多くあがった。
   
  

参加路面電車愛好支援団体代表者および事業者代表による各地の現状と活動の主な報告  

  • 札幌市ではススキノと西4丁目の間を繋げ、デパートや商店街の多い都心をぐるっと回る循環路線化の動きがある。8/7追記
  • (函館)明るい話題がないが、赤字解消にいろいろイベントをやっている。鯉のぼり電車、保育園卒園式、作文展等。
  • (日本路面電車同好会)代表能勢氏より会報は2ヶ月に一度「会報トロリーライン」を発行している。 また「路面電車ハンドブック(改訂版)」は本年8月発行で進んでいるとの報告
  • (豊橋) 豊橋駅への路線150m延長に引き続き、来春には駅前のペデストレリアンデッキが設置される。駅から2kmのセンターポール化が昨年完成した。これは景観整備事業によるものである。 納涼ビール電車を運転。
  • (名鉄)軌道敷通行許可に伴い新造車を入れた。軌道鉄道線とのワンマン運転を実施した。
  • (阪堺)1日1日が勝負といった厳しさである。 40両あるが冷房化率は50%。このうち昼間の冷房化率をフルにしたい。
  • (加越能/高岡)万葉線を愛する会では会報を発行、会員1000円、法人10,000円である。 電車に乗って旧跡巡りを行った。
  • (岡山)岡山市内の路線延長について、岡山電気軌道代表より、延伸活動を開始するとの意志表示がなされどよめいた
  • (伊予鉄)道路整備が進み、通勤者が減り、その分苦しい。松山景観道路整備事業に関連して電停に防護柵を設けた。
  • (広島電鉄)広電のプリペイドカード化で心配された乗降時間遅延の懸念は、当初の慣れによる遅延期間を経過した後は解消し順調である。 広島市議会で将来の市内横断軌道計画を8プラン出したが、そのうち2プラン残った。アストラムライン延長と宮島線の別ルートLRTプランである。 97年度中に結論が絞られる。
  • (長崎電鉄)長崎電気軌道では、消費税5%にアップ後も合理化により100円乗車賃を維持する覚悟であるの発言。センターポール化も進展。花電車、精霊流し電車、写真展等を実施。
  • (鹿児島)3分ヘッドで運行中。乗客は減り続けたが、定時性というメリットで歯止めがかかった。専用、併用線ともセンターポール化を実施している。
  • (豊橋追加)次回サミットは豊橋市電を愛する会と豊橋鉄道の両者により引き受けの意志表示があった
  • (熊本追加)次々回サミットは、熊本市とこれから新設する愛好団体の手で引き受けの方向で動くもよう(別室討議の結果)
 

議題討議

1:新しい路面電車(LRT、スーパー市電、・・・)の新呼称を一般公募する件

  • LRT、超低床車、ライトレール、軽快電車、スーパー市電等々たくさんの言葉が使用されているがぴったりした言葉が見あたらない。 どれもイメージが若干異なるように思う。なにか市民にピンとくる呼称はないもだろうか。
  • 「チンチン電車」の言葉だけは今後使用しないようにしたい。この言葉を使っている限り、今後路面電車のレール(路線)は1mも延びない
  • 思い切って「LRT」という言葉を使ってみたらどうだろう。
  • 結論:公募またはアンケートで統一呼称を選択する

2:新しい路面電車情報の計画的発信について

  • 岡山では路面電車絵はがき、ビデオ、模型を作り市民に示した
  • いま現実的に考えられる方法は、インターネットとパソコン通信である
  • 常時発信ということを考えたい。 例えば全軌協でやる
  • これら手段を愛好団体や全軌協で共同して実施したい

3:利用しやすい運賃システムの研究について(市民ワーキンググループの設置等)

  • ヨーロッパで多用されているチケットキャンセラーシステム(乗客が先に切符を買っておき、乗車時キャンセラー箱に差し込むとチンと音がして動作が確認されると同時に切符に穴が開く。降車時には不要)の利用が真っ先に考えられる。
  • 改札口を無くする方式をしたい
  • 路面電車はノロイ、遅いのイメージがある。 運賃収受の時分の短縮が大事。ぜひワーキンググループを作り全軌協が参加したい
  • 宣言にはっきりワーキングループ設置をうたって実効性を持たせたい
 

運輸省・建設省出席者による講演:都市と交通政策について 

   その1:運輸省鉄道局企画課技術開発室長 山下廣行氏

(注)氏は講演に際しOHPを使用し説明をされた。 この資料がたいへん理解しやすいものであったので、同氏に特に許諾を得て、ご見解のOHPをそのままホームページに転載したものである。            


その2 建設省道路局企画課道路経済調査室長 藤本貴也氏


     (本報告は上記服部重敬氏の報告をそのまま転載しました)
  • 新しい道路整備5カ年計画で、パブリック・インボルブメント、住民参加の計画作りを行い、36,000人から意見を伺ったが、その中に道路渋滞の解消、公共交通支援の意見が少なからずあった。
  • 将来の交通需要を考えると、人口が2007年頃には頭打ちになっても高齢者の免許保有増で、2〜3割の保有増が考えられる。しかしそれは道路整備だけでは解決が難しく、需要抑制、転換政策(TDM)を勧めて行く必要がある。しかしこれには地元の受入が必要である。
  • 今後の交通政策のポイントは、カーナビ等の情報システム整備や、一定以上の人数が乗車している自動車の優先通行による自動車の効率利用、乗り換えのバリヤフリー化を含む交通機関の連携強化、大量交通機関の支援といったマルチモーダル政策の推進であり、その原資は道路利用者からの財源によって進めていく。
  • 今後の路面電車への施策としては、平成9年度から道路事業への組み入れによって、インフラ支援を創設し、一般財源によって架線柱、停留所への補助の拡充をおこなった。これにより、道路渋滞解消への貢献が期待される。
  • 事業者への要望として、今までの消極姿勢から、利用者増への発想の転換を行い、設備投資に前向きに取り組んで欲しい。その波及効果を期待したい。

第1分科会:LRT部会

分科会テーマ:LRT時代の幕開け、その可能性と課題

コーディネーター 服部 重敬 (都市交通研究家)
コメンテーター   水野良太郎 (イラストレーター)
            行徳 健次 (熊本市交通局長)
            田中 義政 (埼玉県与野市政策審議室長)

基調講演 服部重敬 −なぜいまLRTなのか−

はじめに

 今、世界各地で路面電車の再評価が急速に進められています。この20年間で新しく建設された都市は50を数え、さらに70余りの都市で建設中、あるいは計画されています。かっては時代遅れの消えゆく乗り物、と言われていたのに、どうして今、ふたたび路面電車再評価の機運が高まっているのでしょうか。 自動車中心の街づくりは、さまざまな点で多くの弊害を生みました。道路渋滞による経済損失、排気ガス・騒音などの環境問題、さらには都心に人が集まらなくなる空洞化、公共交通のサービス低下などなど。こうした自動車社会の行き詰まりに対し、このままでは都市の機能が維持できなくなるとして、これまでの都市交通政策への反省が芽生えて来ました。ひたすらに道路の拡張を行うのではなく、クルマの使用を抑えるために公共交通機関を乗りやすく使いやすいよう整備し、都市内の居住性を高め、活性化を図ろうというものです。 そのような中で路面電車の見直しと改良が進められました。こうして生れた新しい路面電車はライトレールとかスーパー市電とか呼ばれ、昔のチンチン電車とはちょっと違っています。低コストで環境面にすぐれ、音が静かで形もスマート、スピードも速くて 地下鉄並み。しかも床が低くて乗り易く、高齢化・成熟社会にも相応しい乗り物として生れ変わったのです。すでに欧米では、中規模の都市に最適な次世代の交通機関として位置付けられています。 このように路面電車の再評価が行われたのは、人と環境にやさしい乗り物という路面電車の持つ様々なメリットが評価された結果なのです。自動車社会の抱える様々な問題を解決するため、公共交通機関の復権はもはや時代の要請といえます。


1)日本の路面電車廃止理由

 日本の大都市から路面電車が消えてから、早くも20年以上の歳月が過ぎようとしています。1969年(昭和44年)に大阪、1971年(昭和46年)に神戸、1972年(昭和47年)に横浜と東京(除く荒川線)、1974年(昭和49年)に名古屋、1978年(昭和53年)に京都、1979年(昭和54年)に福岡と、ほとんどの大都市で1970年代に路面電車が全廃されています。全国的にみると、路面電車の路線の変遷は下記の通りで、戦後最盛期の1955年(昭和30年)に1400キロ弱あった路線は昭和40年代に急激に減少し、1995年(平成9年)の現在ではざっと1/8の250キロほどに減ってしまっています。

表ー1 日本の路面電車所在都市、事業者、営業キロ、旅客数一覧
 年度 所在都市数   事業者数  営業キロ(キロ) 旅客数(百万人)
 1900  4      4     43.3
 1910 23     25    401.6
 1920 42     57    891.9
 1930 66     82   1458.4
 1932 67     83   1479.0  日本の路面電車最盛期
 1940 60     67   1392.3
 1950 55     58   1396.4    2,253
 1955 51     55   1371.4    2,594
 1960 47     50   1319.2    2,655
 1965 39     42   1157.9    2,274
 1970 33     34    682.6    1,056
 1975 22     23    389.4      546
 1980 20     20    306.4      356
 1985 19     20    277.3      289
 1990 19     20    268.8      262
 1995 19     20    249.5      247

*LRT導入に関する調査・研究、都市交通年報他から作成
 その理由は、都市によって多少の違いがあるでしょうが、以下のような事が考えられるのではないでしょうか。

1)-1 国策に基づいた道路使用の合理性

日本でクルマ社会が本格化したのは昭和30年代中頃と言われています。モータリゼーションという言葉がマスコミで使われ出されるのが1964年、そして大衆車の販売が開始されたのが1966年であり、この頃から乗用車が急速に増えはじめます。
 しかしながら、道路混雑により路面電車の運行障害が現れて来たのはそれよりも早く、1960年頃からでした。当時の道路事情は現在と比較できないほど悪く、数少ない車の走れる道に自動車が集中し、道路渋滞が慢性化しつつありました。その頃の自動車は、現在の自家用車と違い商用車がほとんどで、その数も現在のおよそ1/30の230万台にすぎませんでしたが、すでに大きな社会問題になっていたのです。中でも昭和35年10月6日には北大阪地区で10時間に及ぶ大規模な交通麻痺が起こり、この原因として槍玉にあがったのが路面電車でした。
 現在では多少様子が変わって来たものの、当時は国をあげて高度成長に邁進しており、生活における多少の不便さよりも産業優先の時代でした。産業を活性化させ、企業が繁栄する事が個人の幸福につながると信じられていたのです。そして国策としてバックアップし、日本の産業の中心としようと位置付けていたのが自動車産業であり、それを実行するには道路整備を早急に進める必要がありました。
 しかしながら、道路はそう簡単に造るわけには行きません。そこで考えられたのが、それまで自動車の走行が禁じられていた軌道敷を自動車に解放し、走れる車線を多くする事でした。軌道敷内の自動車通行可は昭和34年に東京都で始まったといわれていますが、この道路行政上の交通容量増大を目的とした施策の実施によって、路面電車の機能低下は顕著になってきます。
 自動車による運転障害は最初は右折車から始まり、電車前方への割り込みが頻繁に起こるようになると、制動力の差から常に制動体制を取らなければいけない事から、著しく速度が低下しました。これを合法的に認めたのが軌道敷内の自動車通行許可であり、これによって電車は実質的に力行運転出来なくなってしまったのです。
 ここで参考までに、日本における道路投資と自動車数の変遷を見てみましょう。


 表ー2 1955年以降における道路投資とその構成

年度   道路投資総額(億円) 国民総生産比(%)  自動車保有台数(万台)

 1955        623     0.72        230
 1965      6,991     2.08        723
 1975     29,550     1.94      2,837
 1985     71,874     2.21      4,615
 1990    103,078     2.36      5,766
 1995    143,918     2.95      6,592

 昭和40年代に急激に自動車保有台数が増えているのが読み取れます。もっとも、自動車生産を日本の基幹産業とした事は、その後の日本の繁栄を見る限り、必ずしも間違っていたとは言い切れないでしょう。しかしながら、クルマの生産と道路容量増加の際限のないいたちごっこをくり返し、ひた向きに道路を造りつづける現在の道路政策は、様々な点から限界が来ているように思われます。

1)-2 赤字の増大

 渋滞に伴う運行スピードの低下は、急速な利用者の減少をもたらしました。加えて、電車の運行効率も悪くなり、収益性も急速に悪化します。また、自動車の軌道敷通行によって、軌道保守の経費もかかるようになってきました。利用者の減少によって収益が減少し悪化し、これに対して行われた運転本数の削減がさらに利用者を減らすと言う悪循環によって、路面電車はますます衰退していきます。
 このような状況において、またしても国が路面電車廃止に一役を買う事になります。すなわち自治省による地方公営事業再建制度の制定で、赤字の公営交通事業に対し再建計画を実施すると、当該自治体の一般会計や国や都道府県から補助金を受けられたり、事業再建の為に地方債を発行できると言う制度であり、その条件として必要であったのが短期的な財務体質の改善、すなわち不採算事業の廃止でした。その結果として赤字基調でバスに代替が可能な路面電車事業が目を付けられたのです。こうして自治省の公営企業法上の経済合理性によって、急速に路面電車のバスへの置き換えが始り、第一次再建期間の昭和41年から47年の間に東京、横浜、大阪、神戸で路面電車が姿を消し、第二次の昭和48年から62年にかけて、名古屋、仙台、京都が廃止になり、実質的に大都市のすべてから路面電車が姿を消すことになったのです。

 表ー3 昭和41年以降の公営路面電車の廃止

  昭和41年  秋田市
    42年  呉市
    44年  川崎市、大阪市
    46年  神戸市
    47年  東京都(荒川線を除く)、横浜市
    49年  名古屋市
    51年  仙台市
    53年  京都市


1)-3 ニーズへの対応の不備

 路面電車が生き残れなかった背景には、路面電車側の責任もありました。それは、時代のニーズに対応できず、長期的な施策がなんらとられなかったことです。
 特に戦後、昭和20年代後半から始まった都市への人口集中と、それに伴う住宅の郊外化に対し、路面電車の路線延長は限られたものでした。このため路面電車は市街地の限られた地域だけの対応にとどまり、拡大する郊外へのサービスはバスが担うことになりました。一方、郊外からの私鉄も乗客が増加し、市街地の輸送は路面電車が担ったものの、一車体の長さが30メートルと制限されていた事から輸送力に乏しく、道路渋滞も加わり、都市の交通機関としての機能が発揮出来なくなってしまいました
 また、バスと比べ車体の耐用年数が長いことから古い車両が多いことも嫌われる原因となりました。当初は車齢の新しいバスと比較され、後に冷房付きが標準となってくると設備面の遅れがますます顕著になりました。車両もボギー車が主流のことから一両あたりの輸送力がバスとそれほど変わず、大量輸送という軌道系輸送機関のメリットを生かすことができませんでした。
 しかしながら、これらの責任を路面電車に負わせてしまうのはちょっと酷かもしれません。軌道が郊外に延長できなかったのは経済的な余力が無かったのですが、車両だけで路線が拡張できるバスに比べて、自前で路線の建設をしなければならない路面電車は、競争にはまったく不利だったからです。


1)-4 路面電車は古いというイメージ
 イメージ面でも路面電車は、不利な要因がありました。その廃止の頃によく言われた「路面電車は時代遅れの乗り物。それが証拠に世界中で廃止されている」という論調です。 これは戦後、日本が経済だけでなく、文化に至るまであらゆる点についてアメリカを模倣する中で、都市計画についてもアメリカを視察し、自動車中心の文明と路面電車がバスに置き換えられる様子を見て、将来のあるべき姿として喧伝されました。実際にはアメリカにおける都市交通の自動車化には、自動車メーカーや石油会社などによる自動車販売促進の戦略として、路面電車の買収・廃止を進めたという大変な問題があったのですが、当時はそのような事は知るすべも無く、時代の流れと思い込んでいたのです。
 それに類する話として、都市、特に大都市が施設の整備を進めていく上において、そのステイタスすなわち「格」を保つ為、自前で整備したい施設がいくつかありました。大学、総合病院、図書館、美術館、最近ではコンサートホールなんかが競争で造られていますが、地下鉄もそうでした。
 本来、地下鉄と路面電車は全く別の乗り物です。地下鉄は長距離や大量輸送に適したシステムであり、短距離の移動には向いていません。これに対して路面電車は、短距離の移動が中心で、面輸送に適した交通機関です。どちらかといえば、ドア・ツー・ドアの自動車の特性に近い乗り物といえます。
 欧米の大都市では、地下鉄とバスを含む路面交通が同一の路線で使われ、それぞれを補完する働きをしているのですが、日本では二者択一、すなわち地下鉄が出来ると路面交通はその末端輸送機関に転じ、競合路線は原則として廃止となってしまいます。こうなると、長距離の移動は便利になったとしても、短距離の移動は却って不便となり、自動車への移行を促進する事になります。勿論、二つの交通機関を併用したままにしておくのは採算面からの難しさが有るのは事実ですが、その経済原則だけで捉えて地下鉄と路面交通機関の機能の違いをまったくといって良いほど配慮しなかったのが、日本の交通政策でした。
 このような考え方に、路面電車は古い、というイメージが加わると、結果は火を見るより明らかです。こうして、地下鉄ができると路面電車が廃止されるのが慣例となったわけです。

 以上、日本での路面電車の廃止の理由を述べてきました。実際には路面電車を廃止することによって、道路混雑はなんら緩和したわけでないことは、歴史が証明しています。さらに路面電車廃止に伴う公共交通のサービス低下によって、一層クルマ志向が強まり、それが渋滞に拍車をかけることになり、道路混雑はさらに激化してきました。このように、日本の交通政策はいろいろな点で問題があったようです。では、外国ではどうだったのでしょうか。


2)ドイツにおける交通政策

 日本では時代遅れの乗り物といわれ、廃止が続いた路面電車でしたが、世界での路面電車の廃止の動きは、日本で知られているのとはちょっと違っていました。確かに大筋では廃止の方向で、イギリスやフランス、そしてアメリカなどではほとんどの都市で姿を消しました。しかし小型、軽量で小回りが効き、地上からすぐ乗れて便利という路面電車の良さを見捨てなかったヨーロッパの一部の国、特にかっての西ドイツでは、都市交通機関として路面電車を残し、時代に合うよう改良を続けていたのです。


2)-1 生産性向上やスピードアップの工夫
路面電車の短所である小さな車体による生産性の悪さや、客扱い時間や信号待ち時間の増加に伴う表定速度の低下に対しては、連接の大型車体を導入すると共に、運賃の収受方法が工夫されました。
車両では、1956年からデュワーグ社で製造された連接車が標準車となりました。この車両は、二つの車体を三つの台車で支える大型の路面電車で、アメリカのPCC車で開発された技術をベースに、台車枠で電動機枠を兼ね、一モーターで二軸駆動とした、いわゆるデュワーグドライブの採用により、軽量・高速という特徴を持ち、弾性車輪の静かな走行性とあいまって、それまでの路面電車の評価を一変させることになります。
 一方、運賃の収受には様々な方法が試行され、現在はチケットチェックフリーのセルフサービス方式が導入されています。このシステムは、乗客が停留所などにある券売機で乗車券を購入、乗車した後、車内に設置してあるチケットキャンセラー(乗車券消印機)に各自で差し込んで日時をスタンプ(消印)し、消印時に発する音により乗車券を所有している事を他の乗客に認知させ、また、抜き打ちの車内検札を行い、無札、または区間外乗車の乗客からは正規運賃の数十倍のペナルティを課す、という仕組みです。日本では、電車やバスのワンマン運転にあたり、車掌の仕事を運転手が肩代わりしましたが、ヨーロッパでは乗客が肩代わりしたと考えると理解いただけるでしょうか。
行えます。このため連接車を2編成連結した長大で、しかも非貫通の編成でもワンマンで運転でき、しかも乗降時間は飛躍的に短くなりました。
 セルフサービス方式はだんだん進化し、現在ではチケットキャンセラーを車内ではなく停留所に設けて乗車前に消印したり、さらにはチケットキャンセラーそのものを省略してしまった都市すらあります。


2)-2 トラムレーンの確保
 一方、自動車に邪魔をされずに走れるよう、トラムレーンの確保も積極的に実施されました。軌道敷きをブロックや柵で区分したり、舗装を省略したりして電車専用レーンを設けたり、電車優先信号の導入によって表定速度の低下を防ぎました。さらに自動車で混雑する区間でトラムレーンの確保が難しい箇所では、高架や地下化を行って、既存のネットワークを崩さず、都市交通機関としてその機能を維持しました。これらは路面電車(STRASSENBAHN)に対して、路下電車(UNTER STRASSENBAHN)とかプレメトロと呼ばれました。


2)-3 公的補助の充実
 勿論、このような改良は事業者だけでは出来る物ではありません。路面電車をバックアップする法律も制定され、補助金が支給されるようになりました。
 西ドイツで路面電車が生かされるようになった理由として、ひとつには第二次大戦後に輸入石油に頼ることなく、国内の電力供給体制の充実を図るという国家政策があるといわれています。そしてもうひとつが、交通における市場原理への不信に基づく歴史的な管理政策です。
 ドイツの交通政策は、時の大臣によって特徴ある政策が打ち出されているのが特徴ですが、1949年から66年まで運輸大臣を勤めたゼーボームの時代の1955年に、早くも鉄道の支援と道路整備の為、交通財政法で財源の確保が打ち出されています。そして1967年、レーバーの時代には有名なレーバープランで、市場原理に任せては交通問題は解決しない、として、すべての交通機関を対象とした公共交通機関優先の方向性が打ち出されます。このあたりから、競争原理と市場メカニズムを神聖視した日本と、市場原理を良しとしなかったドイツの都市交通政策は、大幅に異なって来ます。
 そして1971年には「地方自治体交通財政援助法」が制定され、ガソリン税を原資とした補助金を、道路整備だけでなく、地方の判断で公共交通機関の建設に使えるようになります。そして1973年のラウリッツェンの時代にクルスルーブ報告書が出され、そこで人間優先の交通政策の指針が打ち出されました。すなわち、クルマによる個人交通は都市の空洞化を招き、生活の質の低下をもたらすので、公共近距離交通を重視すべきというものです。
 こうして1974年以降は公共交通機関における必要経費は、その公共性から社会、すなわち連邦政府や州政府、地方自治体によって一部負担するという運営補助すら定着してきました。その結果、州によって異なりますが、ガソリン税の60%が公共交通整備に当てられる仕組みができあがりました。
ドイツの公共交通重視の政策は環境保護の目的もあって更に充実し、幹線系の整備を目的とした1992年の連邦交通路整備計画では、2010年までの計画投資額4,930億マルクのうち、鉄道に39.5%、道路に38.8%を投資する事になっており、鉄道が道路を上回っています。1985年の旧西独交通路計画では、投資総額に占める鉄道の比率が27.8%に対し、道路が39.7%であったことを考えると、遂に交通政策が道路から鉄道優先に転換してしまったことが伺えます。


2)-4 路面電車新時代
 こうした改良によって、ドイツの都市交通システムでの路面電車の位置づけは揺るぎないものになりました。これらのことからわかるように、旧西ドイツで路面電車が活性化されてきた背景には、電車の性能の向上を図るだけでなく、それを都市計画の中に明確に位置付け、走りやすく自動車に対抗できる環境を整備したことにあります。そして、これらの対策を施した路面電車は最高速度で70キロ/時、表定速度で25キロ/時で運行でき、車両長は最大75メートルまで認められています。これはちょっとした地下鉄並みの速度と輸送力なのです。これに加えチケットキャンセラーシステムの採用により、一人の運転手で何百人も運べるというように生産性も高まり、乗降時間も短くなって、最大一方向20、000人/時までの輸送が可能となりました。中には既存のシステムの改良に留まらず、新しい規格を採用して、ホームと車輛のドアの高さを合わせて乗りやすくしたり、軌道の専用化でより高速で運転できるようにした都市も現れました。
 この新しい路面電車の実力は、鉄道並となってきました。そしてそれは、地下鉄を建設するほどの輸送需要の無い中規模の都市の交通機関として有用であることを具現し、再評価がおこなわれるきっかけをつくったのです。


3)アメリカで生まれたライトレール

 西ドイツで改良された路面電車は、それが過去の交通機関ではなく、これからの時代にも有用な乗り物である事を示しました。それに対して、その路面電車を積極的に取り入れようとしたのが、なんとあの自動車王国、アメリカでした。


3)-1 自動車交通の行き詰まり
 ご存じのようにアメリカでは、自動車会社の圧力もあって、公共交通を保護するではなく、もっとも自由度の高い移動手段である自動車交通を前提に道路整備を重点とした投資が進められました。この結果として、ほとんどの都市の交通は自動車とバスのみに依存するようになりました。しかし1960年代になると、はやくも自動車交通が行き詰まり、その弊害が現われるようになります。
 自動車の集中による都心部の混雑、バスの運行サービスの低下によるトランスポーテーションプアに対する移動の自由の喪失、化石燃料の浪費による資源枯渇と大気汚染、マイカーに起因する犯罪・交通事故の増大、および市域の拡大による都心商業施設の衰退などです。これは、自動車だけに依存してきた都市交通の限界を示すものでしたし、人種問題もからんでヨーロッパより深刻な問題となっていました。
 このような環境下において、早くも1962年に都市大量交通機関の維持や充実の必要性がうたわれたはじめ、1968年に都市の公共交通機関に自動車よりも魅力的なものを創造することが提唱され、主管する部署として運輸省(DOT:Depertment of Transportation)が設立されました。これはエネルギー問題と道路混雑の緩和を目的に、道路経済効率の向上を狙った施策という解釈もできますが、いずれにしろ公共交通の必要性を打ち出したことは、自動車中心の交通政策からの一大転換といえるものでした。そして、その運輸省の目玉として新しい都市交通システムの開発が始まったのです。
 その中心となったのがゴムタイヤを使ってコンピュータ制御で無人運転を行なう新交通システム(AGT:Automated Guideway Transit)の開発でしたが、それ以外の都市高速鉄道の整備に対してもガソリン税を主とする道路財源を使えることになったことから、連邦補助は大幅に強化され、その金額は施設・整備の80%まで拡大しました。さらに、その後は建設補助だけではなく、運営補助まで行なわれるようになったのです。
 もっとも、この段階では、すでに多くのシステムは破産などによって、公営のシステムに組み込まれなければ維持できない状態に陥っていましたし、さらに満足な保守もおこなわれていなかったため、施設も老朽化し、廃墟寸前になるところもでてきていました。しかし、補助システムの確立により、単に機能を維持するだけではなく、より積極的に拡充させようという動きが生まれてきました。

 新時代の路面電車を意味する言葉として、よくライトレールという言葉が使われますが、このライトレールという言葉を、いわゆる路面電車に初めて使ったのは、実はアメリカの運輸省です。
 アメリカの都市交通の改善は、当初はコンピュータで制御する新交通システム指向でしたが、DPM(ダウンタウン・ピープル・ムーバー)として都心部の再開発を目的にデトロイトとマイアミに建設したものの、あまりにもお金がかかるため、その代わりとして目を付けたのが西ドイツで都市交通機関として改良が進められていた路面電車でした。当時、アメリカにはボストン、ニューアーク、フィラデルフィア、ピッツバーグ、クリーブランド、ニューオリンズ、サンフランシスコの7都市に路面電車が残っていたのですが、まずボストンとサンフランシスコで近代化のため新しい路面電車の標準車を造るにあたり、古くさいイメージを与えている「ストリートカー」とか「トロリー」という言葉に変わって、新しい言葉を考え出したのです。それがLRT=「LIGHT RAIL TRANSIT」という言葉であり、その車両であるLRV=「LIGHT RAIL VIECLE」という言葉でした。
 その西ドイツの成果を導入して、北米大陸で路面電車の再評価が始まりました。アメリカの運輸省がこの時定めたライトレールの定義は、新交通システムと違うということで「電動機駆動によって二本のレールの上を走る車両を使用する」という規定もありますが、一番の特徴は「大部分の区間を他の交通機関から分離した軌道を走行する」、すなわち自動車に邪魔されずに走れる交通システム、言い換えれば自動車と共存が可能なシステムということではないかと思います。
 日本ではまだ、ライトレールは都市交通機関として位置づけがされていませんが、アメリカでは既存の都市鉄道システムの中で、路面電車と都市高速鉄道の中間にあたる中量輸送機関としてしっかりと位置づけられたのです。


3)-2 ライトレールの定義
 新時代の路面電車を意味する言葉として、よくライトレールという言葉が使われますが、このライトレールという言葉を、いわゆる路面電車に初めて使ったのは、実はアメリカの運輸省です。 アメリカの都市交通の改善は、当初はコンピュータで制御する新交通システム指向でしたが、DPM(ダウンタウン・ピープル・ムーバー)として都心部の再開発を目的にデトロイトとマイアミに建設したものの、あまりにもお金がかかるため、その代わりとして目を付けたのが西ドイツで都市交通機関として改良が進められていた路面電車でした。当時、アメリカにはボストン、ニューアーク、フィラデルフィア、ピッツバーグ、クリーブランド、ニューオリンズ、サンフランシスコの7都市に路面電車が残っていたのですが、まずボストンとサンフランシスコで近代化のため新しい路面電車の標準車を造るにあたり、古くさいイメージを与えている「ストリートカー」とか「トロリー」という言葉に変わって、新しい言葉を考え出したのです。それがLRT=「LIGHT RAIL TRANSIT」という言葉であり、その車両であるLRV=「LIGHT RAIL VIECLE」という言葉でした。 その西ドイツの成果を導入して、北米大陸で路面電車の再評価が始まりました。アメリカの運輸省がこの時定めたライトレールの定義は、新交通システムと違うということで「電動機駆動によって二本のレールの上を走る車両を使用する」という規定もありますが、一番の特徴は「大部分の区間を他の交通機関から分離した軌道を走行する」、すなわち自動車に邪魔されずに走れる交通システム、言い換えれば自動車と共存が可能なシステムということではないかと思います。 日本ではまだ、ライトレールは都市交通機関として位置づけがされていませんが、アメリカでは既存の都市鉄道システムの中で、路面電車と都市高速鉄道の中間にあたる中量輸送機関としてしっかりと位置づけられたのです。


3)-3 アメリカにおけるライトレール
 こうして北米では、1978年にカナダのエドモントン、ここはカナディアン・ロッキーの北にある町ですが、そこに初めてのライトレールが開通し、81年には同じカナダのカルガリーとアメリカのサンディエゴにも新しく開通しました。アメリカのライトレールは、当初は走行路の自動車との分離を図った高速路面電車指向だったのですが、それにちょっと味付けをいたしました。すなわち、新交通システムの開発で行おうとしたコンセプト、都心部での短距離の移動に便利な公共交通システムの機能を兼ねさせようとしたのです。
 前述の通り、アメリカの公共交通見直しの最大の理由が、モータリゼーションの進展による都心部の衰退であったわけですが、その再開発を進めるに当たり、一番のポイントとしたのが、車の侵入を禁止し、人中心の商業街路の中に路面電車を走らせたトランジットモールの建設でした。そこに人を集めるだけでなく、モール内の移動手段、すなわち水平エレベーターとしても使えるライトレールは、まさに格好の輸送システムであったのです。そしてそれは目的とした再開発において、都心に人が戻って活性化が図れるという大成功を収めました。また徹底的に合理化・省力化されたシステムである事から、サンディエゴではアメリカとしては大変珍しく、営業経費の90%を運賃で賄える好成績をおさめ、全米のライトレール建設の引き金となったのです。 こうして、1984年にはバッファロー、1986年にはポートランド、1987年にはサクラメントとサンノゼ、1990年にはロサンゼルス、1991年にはボルチモア、1993年にセントルイス、1994年にデンバー、1996年にはダラスで開業しました。
 加えて、日本での想像以上に深刻といわれる大気汚染や、道路渋滞による環境の悪化は、ライトレールの導入を早めることになりました。サクラメント、ポートランド、そしてロサンゼルスでは、フリーウェイの建設にかえてライトレールを建設する道を選んでいます。それらはまさしく、鉄道の復権であったわけです。


4)低床車の登場とその評価

アメリカでのライトレールの成功は、世界中の都市交通関係者の関心を集め、世界各地で採用が検討されはじめました。


4)-1 グルノーブルのコンセプト
 フランスは路面電車廃止に積極的でしたが、1970年代後半以降、その再評価を積極的に行い、1985年にはナント、1987年にはグルノーブル、そして1992年にはパリ、1994年にはルーアンとストラスブールにもライトレールを復活させました。
 冬のオリンピックの開催地で、映画「白い恋人たち」の舞台になった町として有名なグルノーブルでは、自動車の増加による諸問題が深刻化しているとして、1983年にライトレール導入の方針が打ち出されたのですが、その理由は次の通りでした。

1. 輸送需要はバスの輸送力の限界を超えている、
2. 都心部ではディーゼルバスによる排ガスと騒音の排除が急務、
3. トロリーバスでは輸送需要を満たせない、
4. 近代化したシステムであるライトレールは、輸送力が大きく生産性が高い。優先信号と合わせると高い評定速度が期待できる。
5. ライトレールの導入と併せて道路のリモデルによって、歩行者本位の街づくりを行って都市の活性化を図る、というものでした。
 ライトレール導入の理由は、ヨーロッパの他の都市でも大体、似たようなものではないかと思われます。この中でも注意して欲しいのは、ヨーロッパではすでにこの段階で、自動車のみならずディーゼルバスによる排ガスと騒音が都市環境に悪影響を及ぼしていると明確にうたっている点です。これは地球環境の保全という大命題以前に、海洋性気候の日本と違って大陸性気候のヨーロッパでは、より大気汚染の影響が深刻で、環境問題に敏感になっている様子を伺うことができます。
 こうしてグルノーブルではライトレールの建設を進めたのですが、復活に当たり、明快なコンセプトを打ち出しました。それは新しいライトレールが昔の路面電車と違うという事を打ち出すことで、特にデザイン面では車両や施設だけでなく、2キロにも及ぶトランジットモールの建設など街路の整備にいたるまでトータルで実施しました。また車両も乗客によりやさしく、乗りやすいことを徹底して追求した結果、開発されたのが全体の床面積の70%がレール面からの高さ350ミリという超低床車です。この車両は、たとえ車椅子でも特殊な装置を使わず歩道から直接乗り降りできるというもので、その後建設されるライトレールのプロトタイプのひとつとなっています。


4)-2 発展する低床車
 低床車の開発は、ライトレールの魅力をさらにアップすることになりました。
 社会の成熟化により、1970年代以降、お年寄りや子供、身障者や病人、そして乳母車といった社会的弱者=交通弱者に配慮した都市基盤の整備が欧米で積極的に進められ、車椅子など社会的弱者でも乗りやすい「人にやさしい」車輛が求められるようになってきていました。
 しかしながら路面からの乗降には、従来の床の高い車輛では問題が残ったままです。乗降しやすくするには、ホームの高さを車両の床に合わせて高くするか、あるいは車両の床を低くするしかありません。高ホーム化は、一部のライトレールで実施されたものの、従来のままの路面電車ではその対応は難しいため、低床ステップレス車両の開発が進められていたのです。
 車輛の低床化には、「人にやさしい」電車が求められたのとは別に、もうひとつの側面がありました。停留所での乗り降りのための停車時間を短くし、表定速度を高めるという目的です。そしてそれは、乗務員が運賃を取り扱わないセルフサービスの運賃収受システムと併用され、さらに効果を高めました。
 車輛の低床化は、まずバスで始められました。バスも社会的弱者への対応が求められており、当初はリフトなどで対応したものの、各国で技術開発が進められた結果、1980年代に入ると床面高さ35センチほどの低床式バスが実用化されました。この流れに対応する形で、路面電車の低床化が始まったのです。まず1984年にスイスのジュネーブに連接部分の台車を小径車輪とすることによって、全床面積の60%の床面高さを従来の半分の 480ミリで下げた低床車が登場しました。
 さらに、グルノーブルのように独立車輪を使って車軸を無くし、このスペースを利用して床の高さを300から350ミリ程度に低くし、低床部分のスペースを広げた車輌が開発されました。このような車輌が生まれた背景としては、コンピュータを駆使した設計と半導体、マイクロコンピュータの導入により、機器の小型・軽量化、そして車軸が無くても両側の車輪をコントロールできる技術が開発されたことによります。
 技術開発はさらに進められ、特殊な駆動方式を使って床のすべての部分を低くした全低床車(100%低床車)が最近になって登場し始めました。それまでの半低床車では、駆動軸は車軸があるのですが、全低床車では駆動軸からも車軸を無くさねばならず、そのあたりに技術的な難しさがあるわけです。
 このように時代の流れに呼応した「人にやさしい」低床路面電車の登場は、関係者の間で高く評価され、すでに実績を重ねたライトレールの建設による都心の再生事例とあいまって、自動車交通の増大とそれに伴うさまざまな問題に悩む多くの都市に新たな方策を示すことになりました。またドイツでは、路面電車の地下化によって短距離の移動が不便になったことや、バリアフリーの要請によって、それまで積極的に進めて来た路面電車の地下化を見直そう、という動きも出てきました。
 こうした状況は車輛メーカーを刺激し、乗りやすく、性能が良くてメンテナンス性に優れた車輛を目指して、競争で技術開発が進められたのです。加えて、ドイツの統合や共産圏の崩壊などで、大量の路面電車の新製需要が発生したことも、競争に拍車をかけることになりました。このようにユーザーである事業者とメーカーとの利害がうまく一致した結果、ハイテクで全床面低床という、いままででは想像すら出来なかった「人にやさしい」路面電車が、各都市に続々と登場することになったのです。


表ー4 1978年以降のLRT,路面電車の復活都市

1978年 エドモントン(カナダ)
1980年 ニューカッスル(イギリス)、スタール・オスコル(ロシア)
1981年 カルガリー(カナダ)、サンディエゴ(アメリカ)、ヘルワン(エジプト)
1982年 リオデジャネイロ(ブラジル)
1983年 ユトレヒト(オランダ)
1984年 マニラ(フィリピン)、バッファロー(アメリカ)、コンスタンツァ(ルーマニア)
1985年 ナント(フランス)、チュニス(チュニジア)
1986年 ポートランド(アメリカ)
1987年 グルノーブル、サクランメント、サン・ノゼ(アメリカ)、ブエノス・アイレス(アルゼンチン)ブラショフ、クルージュ、クライオーバ、プロイエシティ(ルーマニア)
1988年 新界(香港)、バレンシア(スペイン)、モズーイ(ベラルーシ)、レンツァ(ルーマニア)、ウスチ・イルムスク(ロシア) 1989年 イスタンブール(トルコ)、グアダラハラ(メキシコ)、シュシュンスコエ(ロシア)
1990年 ロサンゼルス(アメリカ)、モルトノーイェ(ウクライナ)
1991年 ローザンヌ(スイス)、モンテレー(メキシコ)、ピョンヤン(北朝鮮)、カンピナス(ブラジル)、ホトシャニイ(ルーマニア)
1992年 パリ(フランス)、マンチェスター(イギリス)、コンヤ(トルコ)、バルチモア(アメリカ)
1993年 セントルイス(アメリカ)
1994年 ルーアン、ストラスブール(フランス)、シェフィールド(イギリス)、デンバー(アメリカ)
1995年 ダラス(アメリカ)、クアラルンプル(マレーシア)
1996年 オーバーハウゼン(ドイツ)
1997年(予定) ザールブリュッケン(ドイツ)、シドニー(オーストラリア)
1998年(予定) バーミンガム(イギリス)


5)なぜ今、ライトレールが求められるのか

 ライトレールの考え方は、低床車の開発によって大きく変わってきました。これまでの自動車に邪魔されず、早く走れるようにした路面電車という位置づけから、歩行者本位の街づくりに適した交通機関である事が認識されるようになったのです。そしてそれは、地球環境問題への対策として、都心部へのクルマの乗り入れを押さえて環境改善を図ろうという動きと呼応し、都市構造を自動車中心からライトレールを中心とした公共交通機関中心へと大転換を図ろうとする流れになってきました。
 ライトレールが今までの「チンチン電車」と決定的に違うのは、まさにこの点といえます。単なる輸送機関として機能するだけではなく、市街地のリモデルと活性化、そして環境負荷の軽減という役割を担っていることにあります。
 クルマ社会に伴う市街地の衰退に対し、欧米でとられた対策は、市街地のリモデルを行い、自動車を排除し歩行者環境を整備して、活性化を図ると言うものでした。街の中心には人工的に造られた郊外店舗に無い魅力があり、クルマを気にしないで歩けるショピングゾーンを整備することによって、都心に人を呼び戻そうとしたのです。
 その都心部の回遊性を高め、移動を快適で円滑なものとする役割を担ったのがライトレールでした。ショッピングゾーンに公共交通を走らせた都心商業空間をトランジットモールと呼びますが、そこに人を集め、その中で水平に移動するエレベーターとして機能するようにしたのです。地上から直接乗れて、短距離の移動に適し、しかも環境への負荷の少ないライトレールは、まさに市街地のリモデルにぴったりの交通機関でした。ライトレールを使った市街地のリモデルは、都市環境の改善と活性化と言う成果を収め、都心部衰退に悩む多くの都市に新たな指針を与える事になったのです。
 これらライトレールを含む公共交通の整備と併せ、環境への負荷を減らし、限られた都市空間での機能の維持を図る為、都心部でのクルマの使用を抑制する様々な工夫が実施されました。日本では環境面へ関心はまだまだ乏しいですが、欧州では目標を掲げて地球温暖化防止に取り組んでいる自治体も少なくありません。例えばドイツでは、2005年までにCO2(二酸化炭素)の排出量を1987年実績から25〜30%削減する事が連邦政府の目標となっているといいますが、自治体も地域でこの達成を目指しています。
 ドイツで排出されるCO2の排出源を探ると、その30%が家庭、25%が自動車であるといいます。残りは工業や商業関係ですが、こちらは対策がすでにとられていることもあって、今後多くの削減は望めません。それゆえ、自動車交通の削減が目標達成への大きなポイントとなってきます。
 交通需要管理(Transport Demand Management)と呼ばれるこの対策には、自動車が都心部で走りにくくする交通規制や環状道路の整備、また公共交通機関を使い易くする運賃制度やパーク&ライド設備の充実などがあり、これらを地域の実情に合わせて組み合わせ、自動車から公共交通機関への切り替えを進めていきました。さらに、バスと乗り継ぎを行なう結節点を整備し、ライトレールを基幹交通機関として使う事によって、収容能力の大きな車体による効率性と生産性の高さが一層際立つ事になりました。
 この動きは、新しく建設された都市だけでなく、今までの路面電車が残っていた都市−特にヨーロッパの都市で、路面電車からライトレールへのグレードアップも進めることになりました。路面電車は、ふたたび路面交通の主役に戻ってきたのです。
 この結果、旧態依然のままの路面電車のシステムで営業が行なわれているのは、旧ソビエト、そして東欧諸国のかっての共産圏の国々と日本だけと言っても過言ではありません。


6)日本での復活に向けて

 世界での路面電車復活の動きに対し、日本では1980年、日本鉄道技術協会がリーダーとなり、欧米に負けない車両として日本版LRV(ライトレール車両・軽快電車と呼ばれた)を完成させたのを、復活の嚆矢とすべきでしょう。しかし、当時はまだ経済成長優先の時代で、路面電車復活への認識は低く、その機能を生かす為の環境整備も伴わなかったこともあり一部の車両の近代化が行われただけで、見るべき成果を収めるまでには至りませんでした。
 しかし、その後10数年の内に、世の中は経済成長優先から人と環境との調和の要請が高まってきました。海外における街づくりと合わせての成功例も日本に伝わってきましたし、際限のない道路整備にも限界が見えはじめるなど、路面電車をめぐる状況は随分違ってきました。


6)-1 補助制度の新設

 こうした中、世界での路面電車復権の動きや、地球環境への対応で環境負荷の少ない交通機関への要望が高まったことを受けて、日本でも路面電車を見直す動きが始まったのです。まず平成7年度より、都心部における交通混雑の解消等を目的として都市交通改善事業が拡充され、路面電車の停留所整備や架線中のセンターポール化に対する助成制度が新設されました。この制度の画期的な所は、路面電車が都市交通機関として有効であるということを認めた点であり、初めて路面電車に助成の道が開かれたことになります。
 路面電車に対する補助は、平成9年度に「路面電車走行空間改築事業」の創設によって、さらに充実しました。この事業の目的は、「道路交通の円滑化」のため「道路改築の一環として路面電車の走行できる道路等の整備を行なう」というもので、あくまで建前上は「路面電車の走行空間を活用した車線の増加や交差点等の改良によって、交通混雑等の解消を図る」のが目的ですが、解釈の幅を広くして、実質的には路面電車の建設補助として、国と道路管理者がそれぞれ事業費の1/3を補助する事になりました。路面電車の延長が日本で行われたかった理由のひとつとして、都市モノレールや新交通システムのような建設補助が無かった事があげられますが、この制度の新設によって都市交通機関としての位置づけが明確になり、日本でも一気に見直しの機運が盛り上がりました。あわせて運輸省でも車両メーカー、事業者などで構成する「人に優しい次世代ライトレールシステムの開発に関する研究」検討会が設置され、車両面での検討も進められています。
 いよいよ日本での路面電車復活も本物となって来ました。延伸や復活の実現にはまだ、多少時間がかかるでしょうが、最近の新聞報道を見ていると、路面電車をめぐる話題は、今後急速に盛り上がっていくのではないかと思われます。国のバックアップ、地球環境への対応、街づくりの視点からの要請、建設費の安さなどから、それは想像を越えたものになる可能性すらあります。
 とはいえ、実現に向けて、問題が無いわけではありません。


6)-2 望まれる都市インフラとしての位置づけ

 ひとつは建設費の問題です。
 現在、日本の路面事業者は20ありますが、そのうち民営は15社です。ボギー車の小さな車体による効率性の悪さなどから、多くの事業者は赤字で運営するのがやっとで、新しく路線延長をするのはもちろんのこと、新しく車両を導入する余力もほとんど無いに等しいのが現状です。
  欧米と日本の公共交通機関を見比べてみると、その位置付けに大きな違いがあることに着目すべきでしょう。すなわち、欧米では都市交通を水道や道路などと同じく社会資本として捉え、行政サービスの一環として運営費の補助を行い、サービスレベルの維持に努めているのに対し、日本では公営交通においても独立採算制の事業として捉えて、運賃収入による採算性を重視しているのです。欧米で、環境対策や都市の活性化に対し、公共交通への大胆な投資が可能なのは、この様な背景がある為です。
 かっては欧米の交通機関も、運賃による独立採算でした。しかし、モータリゼーションによって交通企業の維持が困難になった時、都市交通を市場原理にまかせておいて良いのかという反省が生まれました。そして、自動車交通の抑制と公共交通機関の充実を図る総合的な交通管理政策にあわせて、その為の公的支援のシステムを造ったのです。
その公的助成の原資は、多くの場合、日本では道路の特定財源となっている自動車関連税収です。ドイツの場合はガソリン税を財源とし、最大その60%を公共交通に充当できるようになっており、事業費においては概ね連邦政府から50%、州政府から30%の補助があり、新しい車両の導入の場合には、旧西ドイツの都市では50%、旧東ドイツの都市では90%の補助が行われます。またアメリカでは、一般財源とガソリン税を原資として、最大75%の事業費の助成があるといわれます。
 日本の公共交通が、まがりなりにも運賃収入に頼った独立採算でやってこられたのは、人口密度が欧米に比べて高く、都市に人口が集中しているからにほかなりません。しかしモータリゼーションの影響を受けて、都市鉄道の一部を除いて、多くの事業者は赤字に苦しんでいます。それでも事業が継続できているのは、事業者の努力と関連事業などからの内部補助に寄る所が大きいといえます。しかし独立採算ゆえに、赤字が続けば収支の均衡点まで、サービスレベルの低下は避けることができません。
 しかし、それで良いのでしょうか。すでにこれまでに述べたように、環境問題にしても、地域の活性化にしても、クルマの使用の抑制と公共交通機関の充実が成果を収めていることは、世界各地で実証済みです。また福祉面からの要請はもちろんの事、来るべき高齢化社会に備えて、公共交通の維持と充実はますます必要性が高まると思われます。
 日本と欧米では税制度が違い、地方財源に自主性が乏しい日本の制度では、地方が交通に責任を持つことは難しいのはいうまでもありません。しかし、どこかで現在の公共交通を市場原理に任せた流れに歯止めをかけない限り、早晩、都市は衰退の危機に直面する可能性が高いと思われます。ましてや自動車の排気ガスの抑制など論外であるのはいうまでもありません。
 昨今、公共料金の割高感が叫ばれ、規制緩和による料金引き下げが進められようとしていますが、乗りやすい運賃、ましてや自家用車へ競争力のある運賃を設定しようと思うと、建設費を運賃で賄う従来の方法では、公共交通の新設はほとんど不可能といえます。日本での運営費の助成は現時点では難しいとしても、公的補助の拡充、あるいはイギリスで行われている「上下分離」、運営とインフラとを分離し、事業者の設備投資に対する負担を軽減して、事業がやりやすく、効率的な運営が出来る仕組みをつくる必要があるのではないでしょうか。公共交通が便利になることによって自家用車の利用者が転移し、結果として道路が空いて自家用車の利用者に利益がある、という理論でガソリン税を公共交通財源とすることを納得させている国もあるようです。 公共交通機関を、道路と同様に都市のインフラと捉え、街ぐるみで育てているヨーロッパ。日本でもこの違いを認識せずに、「単にヨーロッパのライトレールが良さそうだから、それをもってこよう」という発想でのライトレールの導入では、成功は難しいと思われます。



6)-3 クルマを抑え、走りやすい環境づくりを


 もうひとつは、路面電車が走りやすい環境づくりです。 欧米のライトレールの狙いは、最少のコストで高度なモビリティを確保することにあります。クルマを抑える為の交通需要管理(Transport Demand Management)による都心部を走行する自動車の数を少なくするために、郊外で交通結節点を整備し、バスとの乗り継ぎ、あるいは自家用車とのパーク&ライドを行なって、都市の基幹輸送システムとしての機能させる必要があります。また、バスの乗客を受け継ぎ、また自家用車からの転移を促すために、車両は収容力が大きく、快適な設備であることが望ましく、そのため車両は大型の連接車が必要になります。
 しかし今の運賃収受システムでは、乗務員が運賃の取り扱いを行うため、時間がかかりますし、大型の連接車ではその為の補助員が必要となり、生産性が低くなる欠点があります。
 例えば今度低床車が入る熊本と、フランスのストラスブールとを比べると、表定速度が熊本市が13Km/hに対して、ストラスブールは22Km/hと大きな違いがあります。ちなみ日本での新交通システム、モノレールの表定速度は平均28Km/h、地下鉄は33Km/hであり、さすがにそこまではないものの、地上を走り、駅間距離が短い(平均555M)線形を考えると、表定速度は低くとも、トータルの時間ではほとんど変わらないでしょう。
 このように高い表定速度が確保できるのは、自動車交通をコントロールする都市交通政策が行われているためであり、もうひとつは停車時間の短縮にどの扉からでも乗降できるセルフサービスの運賃収受方法が効果を上げているためです。日本では、路面電車の走行時間の合計の内、およそ40%が停留所の停車時間と交差点での待ち時間に費やされているとのデータもあり、停車時間と信号待ち時間の短縮は、路面電車を機能させ機能させる為に絶対的に必要な条件といえます。
 セルフサービスの運賃システムを採用するメリットはもうひとつあります。乗務員がは運賃扱いにタッチしなくても良いため、連接車を2編成連結した長大で、しかも非貫通の編成でもワンマンで運転できることです。この合理化・省力化されたシステムにより、一人の乗務員で最大600人も輸送できるというように、バスとは比較にならない高い生産性をあげることができます。このように運営コストが最小に出来るのも、ライトレールならではの大きなメリットです。
 しかし、これらシステムを日本に導入するには様々な困難が予想されます。前者は、今までクルマの自由な使用を認めて来た日本の交通政策の大転換が必要です。また、後者は日本で前例の無い運賃収受方法であり、確実な運賃の収受が可能かが成否の鍵となります。欧米では切符を所持していない乗客からはペナルティを取る事で無札の牽制をしていますが、制度の違いもあって、日本での実施には難しい面がありそうです。また実用化が間近い非接触式の乗車券システムを用いたとしても、車内で乗車券所持の確認をする限り、大量の乗客を短時間に処理する事は難しい、ともいわれています。
 とはいえこれらの問題を解決しない限り、いくら車両だけが新しくなったとしても、欧米のライトレールのように都市の基幹交通システムとして機能する事は難しいのではないでしょうか。
大型の連接車ではその為の補助員が必要となり、生産性が低くなる欠点があります。


6)-4 望まれる路面電車への意識転換、まずはイメージチェンジから


 日本での「新路面電車元年」を迎えるにあたり、現時点でおそらく一番ネックとなるのは、制度やシステムの不備ではないでしょう。利用者である市民はもちろんの事、多くの自治体、そして事業者・その従業員においてすら、路面電車の都市交通機関としての真のポテンシャルに気がついていない点にあるのではないでしょうか。最近の近代化された世界の路面電車の動向はほとんど知られておらず、仮に知られていても外国の特殊な例としてしか見てもらえません。多くの人にとって、相変わらず路面電車は今も「チンチン電車」であり、消えゆく乗り物でしかありません。クルマ偏重の交通政策、自動車文明を豊かな未来ととらえ、その後押しをしたマスコミ、モータリゼーションの影響をまともに受けて、赤字経営に陥り、維持するのがやっとの事業者。昭和30年代から30年以上にわたり培われてきた路面電車のイメージを、一気に変えようというのは至難の業です。
 しかし、まず古めかしい「チンチン電車」のイメージを払底しない限り、どのような制度ができたとしても、路面電車の復権は難しいのではないでしょうか。郷愁の乗り物としてではなく、都市交通機関としての有用性が利用者・市民に認められてこそ、その必要性が認識されると思われます。
 今回のサミットを契機として、まず大切な事は、路面電車の持つ街づくりや都市機能改善に向けての可能性を広く一般にアピールすることによって、過去からのイメージチェンジに努めることではないかと思います。そこでライトレールという言葉を使っても悪くはないのですが、もうひとつイメージが想像しにくいのがネックといえます。かってアメリカの運輸省が補助制度をつくるに当たってライトレールという言葉を使ったように、日本でも新しい時代の路面電車に相応しい、わかりやすい日本語を定め、マスコミやキャンペーン等に統一して用いることによって、そのイメージを明確にする必要があるのではないでしょうか。
 路面電車の認識が新たにされた時こそ、日本に本物のライトレールが誕生するのです。

*欧州のライトレールの動向については、鉄道ファン誌掲載の拙稿「新時代を迎えたヨーロッパのライトレール 1〜6」(1996-3、4、6、1997-4、5、6月号掲載)もあわせてご覧ください。


【参考文献】

・Vukan R.Vuchnic著 田仲博訳「都市の公共旅客輸送−そのシステムとテクノロジー」 技報堂出版 1990
・天野光三・中川大著「都市の交通を考える」技報堂出版 1994
          ・天野光三著「都市の公共交通」技報堂出版 1988
・交通と環境を考える会編「環境を考えたクルマ社会」技報堂出版 1995
・中西健一著「現代の交通問題」ミネルヴァ書房 1987
・角本良平著「鉄道と自動車−21世紀への提言」 交通新聞社 1994
・川村健一・小川祐幸著「サスティナブル・コミュニティ」学芸社 1995
・池田博行・松尾光芳著「現代交通論」税務経理協会
・「LRTの導入に関する調査・研究」平成3年 社団法人交通計画協会編
・里田 啓著「世界のLRTフルコース」:鉄道車両と技術
・Light Rail and Modern Tramway 各誌
・Light Rail Review 各誌
・「運輸と経済」各誌
・「JREA」各誌
・「道路」1996-9
・「交通工学」1996 No4、1997 No1
・「都市と交通」1995-3
・「NIKKEI CONSTRUCTION」1996.9.27
・「鉄道ファン」「鉄道ピクトリアル」「鉄道ジャーナル」各誌
・NIFTY SERVE 鉄道フォーラム



討議

  (服部重敬氏に山根補足して要約)

  • 日本路面電車の抱える問題点として、独立採算の中での独立交通を維持する困難さ、そのあり方への論議の必要性。
  • バストの比較において、路面電車の輸送力の大きさ、経済性などの利点。
  • バスは電車に負けたの説はまちがいだ。バスの比較には地下鉄やモノレイルを比較すべきである。
  • 熊本のLRTを大事に育てよう
  • 運賃収受システムについて、プリペイドカードはなじみやすい。チケットキャンセラー制が鍵だ。日本で根ずくかどうか。将来はゾーン制を前提とし、いろいろなシステムを試行錯誤しながら検討することが必要。
  • ライトレールでは、街の中に500mごとに電停があるような街づくりをすべき。
  • 街づくりについては、高齢化とリンクさせる必要である。
  • チンチン電車からのイメージチェンジに障害となるレトロの扱いについては、趣味の次元・古い文化の保存であり、現実的な対応が必要、といった意見が出された。
  • 現実は中心地に出るにマイカーの方が安い実態がある。利用者負担ばかり押しつけると利用率は下がる。 やはり西欧型の公共補助をすべき。
  • 大正時代に出来た軌道法、鉄道法を引き続いているのも考え直すべき。
  • 総括としては、市民の協力で新路面電車システムを育てていくことが大切との結論が導かれました。

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