路面電車を考える会例会 講演録32     

    「 呉市電の軌跡 」

 
        佐藤 百實 (さとう ももみ) 
06.3.23
講演日時:2006年3月8日 6:30p.m.〜8:20p.m.
会場:広島市市民交流プラザ

館主前言:
 広島市に隣接する呉市は人口26万人余の都市で、かっては軍港、今は造船と鉄工業の都市として繁栄しています。
最盛期には人口は40万人も擁し、当然路面電車も存在ましたが、惜しくも昭和42年に廃業しました。適当なサイズの潜在乗車人口を持ちながら何故廃止になったのかは知りたいと思っていました。  たまたま佐藤氏という広島県交通史研究家が、公務員として1980年から1995年まで呉市に居住され、呉市電の歴史を研究されたと知り、研究成果を発表して頂きました。これでやっと呉市電の歴史を知ることができました。

佐藤百實氏略歴
1958年 広島市生まれ
1978〜80年 広島電鉄でアルバイト車掌経験
1980年 広島経済大学経済学部卒業
 卒論:「地方都市における路面電車の役割
   〜 広島の路面電車の現状と将来 〜
1992年 鉄道友の会会員(現在中国支部会計委員)
1993年〜 日本バス友の会会員
1998年〜 路面電車を考える会会員


佐藤氏講演要旨

  (挿入作図は佐藤氏提供)


●呉市電は呉電気鉄道株式会社により、広島県内初の路面電車として
  開通した。

  •  開業は1909年(明治42年)10月31日であった
電車開通時の新聞広告  開業当時と思われる13号電車
   (廃止記念絵はがきから)

●戦前の路線延長の歴史(開業から呉市交通局に統合まで

  • 呉電気鉄道が発足し、国鉄呉駅前から西に川原石までを建設。のちに別会社芸南電気軌道が設立され呉駅前から東に長浜までを開業した。
  • その後、電車事業は拡張を重ね、また合併・営業譲渡等を経て、昭和4年4月に大正11年に設立された芸南電気軌道株式会社に電気軌道事業が一本化された。その後第二次大戦突入の気配を見せる軍港都市として、交通需要への対応は急務となり、また海軍の要請もあり、市は交通事業の市営一元化に乗りだし、呉市内の乗合自動車事業経営を買収後、芸南電気軌道も買収し、呉市交通局が発足した。
  • 年表的詳細は・・・・
     明治42年10月31日 呉電気鉄道鰍ノよる県内初の市街電車
                    西本通三丁目〜本通九丁目間開通
            12月26日 呉電気鉄道鰍ノより呉駅前分岐〜呉駅間開通
      明治43年 4月27日 呉電気鉄道鰍ノより西本通三丁目〜
                    西本通一丁目(川原石)間開通
      明治44年 3月26日 呉電気鉄道鰍ノより本通九丁目〜朝日町間開通
            10月25日 呉電気鉄道鰍ニ広島水力電気鰍ェ合併し,
                    広島呉電力(株)となり,電気軌道経営開始
      大正10年 8月12日 広島呉電力鰍ニ広島電灯鰍ェ合併し,広島電気鰍ニなる
      大正11年12月20日 芸南電気軌道叶ン立
      大正13年 2月 1日 市街電車を左側通行に転換
      昭和 2年 4月10日 芸南電気軌道鰍ノより本通九丁目〜呉越間開通
             11月28日 芸南電気軌道鰍ノより呉越〜先小倉間開通
      昭和 4年 4月10日 芸南電気軌道鰍ェ広島電気鰍フ軌道を買収し,
                     市街電車の経営一本化
      昭和 5年12月30日 芸南電気軌道鰍ノより先小倉〜広工廠間開通
      昭和10年12月21日 芸南電気軌道鰍ノより広工廠〜長浜港間開通
      昭和17年12月 1日 呉市が芸南電気軌道鰍買収し,呉市交通局が発足

●呉市電昭和10年当時の路線図

   
芸南電気軌道株式会社
電車並バス運転系統図
「呉の歩み」から
  • 赤太線路が路面電車路線。細赤線・緑線・水色線はバス路線。路面電車の軌道は西は川原石電停、東は廣長浜まで延伸をしており最大路線長は既に完成していた。
  • 左上のゴム印は「呉鎮守府 検閲済」のゴム印が押してある。すべてに渡り軍機という機密保持制度が行き渡り、なにごとも軍の承認を必要とした。

●呉市電コースを現在地図に描いてみると


             赤線が往時の路線
  • 西の川原石電停は呉駅の北西から呉線を渡る陸橋を渡り南下した現在の三条1丁目あたりまでであり、呉線の川原石駅よりだいぶ手前である。
  • 呉越えとは呉市中心部から阿賀に至る中間の約100mの峠のこと
  • 広交差点から長浜にかけては往時海軍の航空機製造施設があったため延長された

●戦前の使用車両と街の賑わい


本通り9丁目付近 「廃止記念絵はがき」から

          呉陸橋にて (昭和36年6月4日)

       西本通り6丁目にて (昭和37年9月9日)

●戦後の経過と廃止への道程

  • 呉市電は戦後の線路の延長は無かった
  • 昭和36年に日本全国で400万台だった自動車は、10年後の昭和46年には2,122台と約5倍に増加した。マイカーの増加で,大量輸送機関の電車・バスにしわ寄せが呉市電の経営を圧迫した
  • 市当局は赤字続きへの打開策として電車のワンマン化を計った。ねらいは人件費節減と夕方のラッシュ時の増車運転である。そのとき労組が猛反対したが、結局中国地方初のワンマン電車となって登場した。昭和36年4月22日のことである。対象は当時の保有車両38両,新造3両,改造7両の10両にて運転を開始した。

              「廃止記念絵はがき」から

  • 廃止への決定的な出来事は、昭和42年7月8日〜9日にかけての豪雨である。これは佐世保,呉,神戸市で大きな被害が発生。佐世保で1時間125mmの大雨というものであった。呉市でも70mmを越える大雨となり、2日間の降水量も300mmを越え、背後に山地がある都市部で大雨となったため、土砂崩れや鉄砲水が多発し、甚大な被害を受けた。

           「呉の歩み」から
  • この災害による線路の復旧補修に膨大な予算がかかるという理由が、呉市電の廃止を一挙に押し進める契機となった。呉市長は,9月8日の記者会見で「市電の廃止を9月市会に提案する」と発表した
  • 根本的な要因としては、昭和39年当時〜1日35,000人の乗客が昭和42年9月〜1日 5,500人の乗客に激減したことにあろう。

●市電廃止の日

  • 遂に昭和42年12月17日 呉市電は営業を終える日を迎えた

                廃止当日は各種行事が行われた

●呉ポートピアパークに呉市電車両が残る

  • 車両は解体、そして分散し、そのうち1959年(昭和34年)製モハ1001号車は1957年に伊予鉄道に譲渡されたが、2004年3月に里帰りし、その後旧呉市電塗装に塗り直され、今は呉市の呉ポートピアパークにて市民に公開されている

       参考ページ:伊予鉄 引退電車を故郷呉市に里帰り保存


●参考文献:

  • 「呉市交通史 電車・バス轍の跡」 〜 昭和30年12月10日 呉市交通局発行
  • 「呉と鉄道」 〜 昭和30年12月27日 呉駅開設50周年記念誌出版後援会発行
  • 「呉市電車事業廃止記念 呉市交通発達史年表」 〜 昭和42年12月17日呉市交通局発行
  • 「ワンマン騒動覚書き《都市交通苦難の記録》」〜昭和46年6月1日 著者 中邨末吉
  • 「呉市交通局のあゆみ」 〜 平成4年12月 呉市交通局発行
  • 「日本のエジソン −藤岡市助に学ぶもの−」平成8年10月17日 著者 佐山和郎
    「呉市制100周年記念版 呉の歩み」 〜 平成14年 3月25日 呉市役所発行
  • 「呉市制100周年記念版 呉の歴史」 〜 平成14年10月 1日 呉市役所発行
  • 「呉市交通局60年史」 〜 平成14年12月1日 呉市交通局発行
  • 「RAIL FAN」「鉄道ファン」「鉄道ピクトリアル」「鉄道ジャーナル」 ほか