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山根政則の制作するホームページ;路面電車を考える館を開設したのは1997年3月のことです。開設後13年目の2010年4月にアクセスカウントが200万カウントを達成しました。 実は2009年秋に朝日新聞にて制作者である館主の個人紹介記事が掲載されたりしまして、今では私の存在は公知のこととなり、個人情報を隠すことも不適当と判断し、これを機に制作者紹介ページを新設しました。 まずは記事になったものから、制作者の新聞紹介記事3編をご紹介し、当館「路面電車を考える館」のこれまでの歴史を象徴する記録数編をご紹介します。 今後とも変わらぬご愛顧のほどお願い致します。 |
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2009年11月25日 館主山根政則が 朝日新聞に紹介されました 。 |
真っ先に、プロフィール公開動機になった朝日新聞記事をご紹介します 去る10月30・31日LRT都市サミット2009が広島市にて開催され、館主もパネリストとして出演ししたことは先般ご紹介しました。実はその翌日、朝日新聞広島総局の記者さんから、「広島生まれの被爆者である山根さんを『被爆から64年〜聞きたかったこと〜』として採り上げたい」との慫慂を受け、取材されました。 記事が出ましたが、標題は「路面電車から祈りたい」となっております。やはり15年前に東京から故郷広島市にUターン後、一貫して路面電車・LRTの市民活動を続けたことが目を引いたのではと感じました。 |
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1997年3月22日 掲載初号の記事は熊本市電が超低床車を採用の記事 。 |
最初の記事はこんなだった 熊本市電は当時日本初の超低床電車(LRV)を導入や、インファンド軌道を試作するなど優れた先駆的事業者でした。 ちょうど折良く熊本市で街づくりと交通アクセスシンポ'97が開かれ、出席したので、早速新聞を購入したら、好個の材料を得ることができました。 まだ画像処理技術が稚拙で、今見ると「何?これ?」ものですけど、1号記事ですからそれだけに懐かしい。 |
#1 熊本市 熊本市電に超低床電車導入 1997.3.22 |
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平成9年3月22日付「熊本日日新聞」より要約 | ![]() |
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1997年4月15日 ホームページを公開直後に中国新聞から紹介された 。 |
「路面電車を考える館」を公開直後に新聞に採り上げられた ラッキー 1996年頃、日本のホームページ関連の常識は、「どうも日本語のホームページは専門性が薄い。アメリカ製の濃密なホームページを見習おう」という風潮でした。そうだ!広島市だから路面電車のホームページを製作公開しよう!と発憤し、翌97年3月1日に当館を公開しました。 当時、地元の中国新聞が「インターネット交差点」という名の特集記事を毎日出していて、翌4月15日号にて幸運にも採り上げられ掲載されました。 そして本文によるとアクセス数は約470件だそうです。信じられますか? 新聞に紹介直後はカウント数が大きく伸びたのは言うまでもありません。 掲載のロゴに使用する広島電鉄車両は最新型を使用しますが、当時の最新形式がGREEN LINER 3900型であるのも懐かしい。 ちなみに英文版は発行していません。すみません。 |
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1999年1月3日 当初は広島電鉄と広島市記事ばかりであったが他県記事も掲載を始めた 。 |
だんだんニュースソースが増えてきた 当初は取材能力は人脈からして広島市近辺に限られ、広島市の広報や広島電鉄のニュース記事ばかりでした。 それが2・3年も根気よく掲載を続けているうちに、他県の読者にも知れてきました。またYAHOO!のような公的検索ソフトでトップになってからは、その地域の路面電車ニュースをメイルで頂くことが出来るようになり、次第に掲載範囲が全国区になってきました。 下のニュース記事は読者であった、当時兵庫県のH氏から頂戴したニュースを掲載しました。情報提供を受けてとても嬉しかったのを今でも覚えています。 |
#49 ● 兵庫県も阪神地区を対象にLRTの整備構想を策定 |
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1月3日付けの神戸新聞によると: |
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1999年6月8日 路面電車サミット’99 in 豊橋に出席 知友が広がった
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サミットに出席すると知人の輪が広がる 1997年の岡山路面電車サミットや199年の豊橋路面電車サミットにと出席が増す毎に顔を覚え会話を交わす知友が増えてきた。この方達がみんな私のホームページへの情報・資料提供者になってこられて、このころは私製HPを越えみんなで作るホームページという気持ちになってきた。感謝。 |
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●サミット会議
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2001年11月 「鉄道趣味系 サイト案内」 にて紹介された
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鉄道趣味誌にも掲載された 多くの人に読まれるようになってきた2001年(制作後4年後)鉄道関連のホームページ案内書「鉄道趣味系サイト案内」にて紹介されました。 同書は@部/汽車旅党 A部/現代・未来党 B部/歴史党 C部/学究党 D部/アクティブ党 E部/海外党 に分類されており、当館はA部の路面電車に分類されていました、なるほど。 この路面電車に掲載された他のホームページは「日本路面電車同好会」と「市内電車いろいろ」が掲載されています。これら両ページは今も継続しています。頷けますね。 |
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2007年6月10日 「路面電車を考える館」開設10周年記念誌を発刊
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とうとうCD付記念誌発行まで 2007年をもって「路面電車を考える館」は10周年を迎えることになりました。 ホームページの宿命ですが、いつか当ホームページもプロバイダーとの契約を解除する日が来ます。その瞬間をもって皆さまにご提供し続けた情報と積み上げたデータベースは一瞬に消滅することになります。 当館の10年に渡る既掲載情報はわが国、路面電車情報の書庫(アーカイブ)的価値ありとのご意見も頂戴しました。そこで、せっかく多くの方々の努力により集積された路面電車情報が永遠に消滅するのを避ける方法として、当日までの全コンテンツ2,850件を収めたCDを主体とする10周年記念誌を発行することに致しました。 刊行は2007年6月10日の路面電車まつりの日を期して発行することができました。このたび刊行出来ましたのは全国の支援者および情報提供者ならびに広島電鉄さまの絶大なご後援によるものです。深く感謝いたしております。 |
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関連ニュース:路面電車を考える館〜開設10周年記念誌〜 (07/8) |
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2009年10月31日 広島市開催 初のLRT都市サミットに パネリストとして出演 。 |
秋葉忠利広島市長からお声が掛かったので・・・ 広島市居住時代には、路面電車その他市民活動にいろいろ秋葉市長さんと協力しあった故でしょうか、初のLRT都市サミットを広島市にて開催するに付き、パネルディスカッションに出演するように、との依頼がありました。根が出好きの故か引き受けてしまいました。 パネルディスカッションは順調に進み、閉会の挨拶が終わった直後、小生は挙手をして「どうしても発言したいことが残りました」と申し出て、以下の発言をさせて頂きました。それは下の記事の次に記しております。この発言は後で褒められました。市民は発言自由でよろしいですね。(^^;) |
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上図のパネルディスカッションは左から富山森市長、豊橋佐原市長、広島秋葉市長、鹿児島森市長、太田広島電鉄社長、映画美術監督部谷さん、それと山根が右端です、熱弁を振るっています。(^^;) |
山根生のどたんば発言 この2日間の討議で出なかった話は、「何故日本のLRT計画はプラン作成までで新線建設や延伸の実現が無いのだろう?」です。 この10年間わが国での実績はわずか富山市1都市のみ。欧米では10年前には新設が20都市もあったのでわが国は周回遅れだと思ったが、多数の市民活動の成果も空しく今は2周遅れではないか?」ということです。 フランス方式をご紹介したいです。12年前東京で行われた世界のLRT国際会議で聴いた、フランスのある都市交通局長の説明を紹介しましょう。「当市ではLRT路線建設案が持ち上がると、 @官民総てから路線案をドンどん提案させる A案は片端から情報公開し、長所欠点をどんどん発言集めし、市民の討議材料とする。 B出尽くした頃には長所欠点はあるものの自ずから案の順位が決まってくる。(実例表示ではバリエーションを含め15素案もあった) C出尽くした頃を見計らって市長がドンと決めて実行してしまう ・・市民も何となく納得する慣例になっている。 私はこのやり方をフランス方式と名付けましたが、今後日本でも採り入れてほしいのです。 次回2年後のLRT都市サミットを富山市が引き受けられたのは幸いでした。どうか富山サミットでは何故日本ではLRT新線・延伸が実現しないのかも討議して頂くよう、どうぞ富山市長さんお願いします。 |
関連ニュース: LRTサミット 2009 in 広島 (09/10) |
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2010年4月 ホームページ制作13年間の経過と今後を考える 。 |
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2015年7月13日 被爆体験記 「千の太陽よりも明るく」 |
千の太陽よりも明るく山 根 政 則私は広島市の中心部にある問屋街「横堀町」の昭和6年(1931年)に生まれ、都心にある本川小学校を昭和19年3月に卒業いたしました。その小学校は川を隔てて真正面に「産業奨励館」(後日、あの「原爆ドーム」と名称変更)に向かい合うという、今考えると怖ろしい場所にあったのです。 原爆投下のあの日、昭和20年(1945年)8月6日には、私は広島県立第二中学校の二年生になっていましたが,通常の登校日が急遽勤労作業に振替えられ,現在の広島駅北、当時の東練兵場へ集合を命ぜられました。その練兵場は戦時下で食料が急迫し、なんとさつま芋に植え替えられた。その草取りの仕事でした。 畠作業は大嫌いな皆んなですから,8時になってもすぐには作業にとりかかりません。おりしも一点の雲もない快晴の空に,かすかに爆音が聞こえ、東方より米軍の爆撃機B29が一機真っ直ぐにこちらをめざして飛んできました。何にでも興味を示したがる中学二年生はたちまち全員立上がり,そのB29の方を指しながら口々に何か叫んでいます。私は太陽がまぶしいので左手を顔にかざしながら目を凝らして機影を追いかけました。B29は単機で高度も相当高いところから機体をキラキラと光らせながらこちらめざして飛んできます。我々のいる地点よりだいぶ東寄りの位置まで来たとき,ポロリと黒いものを機体から離しました。「落した。落した」 皆が口々に叫びます。その物はあたかも鳥の糞の落下そっくりで,頭上を西方へすーと放物線を描きながら落ちてゆき、たちまち見失ってしまいました。これがあの原子爆弾そのものと知ったのは暫く後のことです。 と,B29の方は爆弾を放り出すや否や信じられないくらいの急旋回で北方へと九十度方向転換し遁走を始めました。「曲った!曲った!」の声で皆んなは一斉に爆弾の落下方向を眼で追うことを止め,スピードアップしながら逃げる機影を追って首を西から北の方に向けたのです。これが,結果的には良かった。おかげで,閃光のために目が潰れないですんだのですから。 飛行機が進路を北に向けてほんの数十秒経ったときか,頭の後ろのあたりがマグネシウムを焚かれたように轟然と光ったのです。「アチチチチチ」 熱線に焼かれた顔と左手に鋭い痛みを感じました。その瞬間は,側に立っていた友人の頬が太陽の直射下にもかかわらず、桃色の皮膚が紙のように真っ白に見えたのを覚えています。これこそ原爆の信じられぬ閃光の特徴なのです。「千の太陽よりも明るく」という言葉は正しいのです。 その直後,市内から地を這うように伝わり襲ってきた爆風で芋畠に打ちつけられて失神してしまいました。数秒なのか?数分なのか? 気が付くと畠の畝の間にひれ伏して両手はしっかり両目を覆っていました。 広島では原爆のことを「ピカドン」と名付けました。最初に光、続いて大きな音が「ドン」と聞こえたからです。然し私の場合は距離が近すぎて(2km)、自分には光は記憶しているがドンの音の記憶はありません。頭上を見上げて驚きました。すぐ上を巨大な入道雲が覆っています。雲は静止しないでむくむく動き膨らみ、その部分々々の色が全部異なります。中心部の雲は原子核反応の余熱が残っているので赤い火球状です。(後日1万5千度だったと聞きました) その外の雲部分は暗紫色、更なる外は暗青色、更に外は灰色。中心の火球部はまだ明るいので、取り巻く雲を通して赤さが透けて見えています。それぞれの雲はむくむくとダイナミックに動きつつ色も変化し続けていきます。絶望的な気分のなか隣家の友人を捜しだし,二葉山南の尾長町から牛田東に通ずる低い峠越へに、牛田早稲田神社隣接の自宅へ帰ることができました。 途中,峠の高度が徐々に高まって行くにつれ広島市中の惨憺たる情景が望見されました。もう市中あちらこちらから幾条かの黒い煙が薄く、すーっと上がり始めています。頭上の原子雲はずいぶん巨大化して,すっかり市全を覆い尽しています。その天辺の縁の部分は白く輝いているのです。この「原爆の凄惨なカラー動画」は被爆者しか見たことは無いでしょうね。 途中、峠の高度が徐々に高まって行くにつれ、広島市中の惨憺たる情景が望見されました。市中あらこちらから行く城下の黒い煙が薄くすーっとあげ始め若干太くなっていきます。 早稲田町に着くと、近所の藁屋根の農家が屋根に火がつき炎上中で、紅蓮の炎を上げていました。消す人は見当たりません。あまりにも怖ろしい体験をするとみんな腑抜けになっているのでしょう。 私は自宅に帰ると奇跡的にも両親,五人の兄弟は誰も市中に出なかったので無事であることを知り安心しました。 母親は私の顔をみるなり、「まあちゃんおおごとよ! この牛田に爆弾が落ちたんよ!」と目を張って言います。 私は「何を言っとるん。爆弾は広島の真ん中に落ちて、今峠から見たが広島じゅうが火事だらけよ。」と答えました。とにかく市民には原爆のスケールがあまりに巨大すぎて想像を越えたのです。自宅はといえば、爆風で母屋の屋根は全体が北側にずり上がっており、縁側をL字形に囲む総ガラスの雨戸はガラスが総て砕け、柱に突き刺さっています。庭の百年を経た黒松は都心を向いた南西側の葉が赤茶色に焦げて縮れています。私は母親から火傷の手当、・・・といっても薬がないのでごま油を塗られ、包帯を顔から背、腕にかけてぐるぐる巻きにされただけでした。 しばらく休んで外に出てみました。被爆後幾らか経過した時ですが、市中からは火傷し、着衣や皮膚がボロボロになって垂れ下がったままの市民が続々避難をしてきます。この町は行き止まりの場所なので、多くの人が早稲田神社境内の樹木の下に休むというより倒れ込んで動かなくなっていました。そしてしきりに「水、水」の声がします。元気な大人が小声で「水をあげてはいけんよ。すぐ死ぬから」と囁くのです。なかでも、やかんの音が聞こえた途端身動きしないでいた人が腕だけをにゅっと延ばし「みずー」の声を聞きましたが、あの瞬間だけは忘れられません。 翌日以降は当地にて行き倒れて息を引き取った人々を牛田公園にて荼毘に付すため、付近の大人が集められて作業に当たることになりました。父も連日奉仕に出かけましたが、帰宅後は「何も言いたくないよ」と言ったまま全く無言。父は亡くなるまでに遂に一回もその作業の状況の説明をすることはありませんでした。当時風向きによっては煙と臭いが公園方向から自宅までただよってきました。その記憶から数ヶ月間は、うちでは魚を食べることはしませんでした。あの臭いを思い出すのです。 私は被爆日8月6日の前日の5日には昔の材木町、今の広島国際会議場のある場所で建物疎開作業をさせられていました。8月6日当日は一学年下の1年生が作業を受け持ったのですが、不運にも300人全員が一人残らず亡くなったのです。この一日の差は今も心の負い目になって今日に至っています。 それから幾星霜。東京にずっと暮していた自分は,たまたま帰広して平和公園を訪れたとき,全く偶然に広島二中の原爆慰霊碑を見つけました。碑の裏に廻って,懐かしい先生方のお名前と級友Y君の名前,それからいつも牛田町から一緒に通学した一年生M君の名前を見つけたとき,ボロボロボロと両眼から涙が噴き出して止らなかったです。今でも慰霊碑を囲み水を湛えたあの池を見るたびに、「みずー」のあの声が必ず耳元に蘇るのです。 (付記) 自分は原爆のことについては長年、文章に書いたことはなかったのです。それは思い出したくないし,触れたくもないという潜在意識が絶えず働いている故でしょう。 私は原爆の出てくる映画は見ない、原爆に関する本も読まないことにしていました。唯一読んだ記憶があるのは、昭和30年代の出版でしょうか、ロベルト・ユンクというドイツのジャーナリストの書いた「千の太陽よりも明るく」という原爆の開発と使用のいきさつを書いた書物です。これでマンハッタン計画というものの存在を知りました。今も私にとってはこの本一冊で充分であると思っています。 こんな私も被爆後10年以上経過した後は変化してきました。即ち原爆についての体験を知人・友人・そして若い人に求められるままに体験談として,意見も含めて努めて語るように心がけるようになりました。歳を取るに付けてますますこの傾向が激しくなってきたように思われます。それは「戦争の惨禍は体験しない時代の人に伝えて、戦争の怖ろしさを伝えるのが体験者の責務である」という風に変わってきたのです。広島市に在住したのは2007年までですが、70歳を過ぎてからは市の依頼で「原爆語り部」を務めるように超変化しました。 私が語り部を務めるとき、最後に申し上げていた言葉は 「戦争に『正義の戦争』というものは存在しない」でした。 2007年に一身上の事情で広島市から宝塚市に引っ越してきまして、本日に至っています。 この記録も被爆の実体験をそういった意図で書かして頂きました。 ----------- 2014.7.19 ----------- (注)山根政則の被爆場所:広島市松原町:広島駅北側 距離:2km 私の当時の自宅位置:広島市東区牛田早稲田1丁目1−2 距離:3km 私の現在の住居:宝塚市 |
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