山根政則の制作するホームページ;路面電車を考える館を開設したのは1997年3月のことです。開設後13年目の2010年4月にアクセスカウントが200万カウントを達成しました。
実は2009年秋に朝日新聞にて制作者である館主の個人紹介記事が掲載されたりしまして、今では私の存在は公知のこととなり、個人情報を隠すことも不適当と判断し、これを機に制作者紹介ページを新設しました。

まずは記事になったものから、制作者の新聞紹介記事3編をご紹介し、当館「路面電車を考える館」のこれまでの歴史を象徴する記録数編をご紹介します。
今後とも変わらぬご愛顧のほどお願い致します。



2009年11月25日

館主山根政則が 朝日新聞に紹介されました 


真っ先に、プロフィール公開動機になった朝日新聞記事をご紹介します

去る10月30・31日LRT都市サミット2009が広島市にて開催され、館主もパネリストとして出演ししたことは先般ご紹介しました。実はその翌日、朝日新聞広島総局の記者さんから、「広島生まれの被爆者である山根さんを『被爆から64年〜聞きたかったこと〜』として採り上げたい」との慫慂を受け、取材されました。

記事が出ましたが、標題は「路面電車から祈りたい」となっております。やはり15年前に東京から故郷広島市にUターン後、一貫して路面電車・LRTの市民活動を続けたことが目を引いたのではと感じました。





1997年3月22日

掲載初号の記事は熊本市電が超低床車を採用の記事 


最初の記事はこんなだった

熊本市電は当時日本初の超低床電車(LRV)を導入や、インファンド軌道を試作するなど優れた先駆的事業者でした。

ちょうど折良く熊本市で街づくりと交通アクセスシンポ'97が開かれ、出席したので、早速新聞を購入したら、好個の材料を得ることができました。

まだ画像処理技術が稚拙で、今見ると「何?これ?」ものですけど、1号記事ですからそれだけに懐かしい。

#1
熊本市 熊本市電に超低床電車導入   1997.3.22
 平成9年3月22日付「熊本日日新聞」より要約
  • 乗降口の段差を解消した「ノンステップ超低床電車」が本年5月熊本市に導入される
  • 5月から試運転 9月から営業運転開始
  • 「ヒューマンネットワーク・熊本」は市電の実態調査を実施。電動車いすで乗降できる電停は3カ所にとどまる。
  • 「街づくりと交通アクセスシンポ'97」が開かれた。市交通局幹部や東京の市民団体も参加し、熊本の都市交通の将来について議論した。
  • 市交通局では平成11年度までに全電停にスロープを設置、拡幅も検討しながら電停整備を進める計画





1997年4月15日

ホームページを公開直後に中国新聞から紹介された 


「路面電車を考える館」を公開直後に新聞に採り上げられた ラッキー 

1996年頃、日本のホームページ関連の常識は、「どうも日本語のホームページは専門性が薄い。アメリカ製の濃密なホームページを見習おう」という風潮でした。そうだ!広島市だから路面電車のホームページを製作公開しよう!と発憤し、翌97年3月1日に当館を公開しました。

当時、地元の中国新聞が「インターネット交差点」という名の特集記事を毎日出していて、翌4月15日号にて幸運にも採り上げられ掲載されました。 そして本文によるとアクセス数は約470件だそうです。信じられますか? 新聞に紹介直後はカウント数が大きく伸びたのは言うまでもありません。

掲載のロゴに使用する広島電鉄車両は最新型を使用しますが、当時の最新形式がGREEN LINER 3900型であるのも懐かしい。

ちなみに英文版は発行していません。すみません。






1999年1月3日

当初は広島電鉄と広島市記事ばかりであったが他県記事も掲載を始めた 


だんだんニュースソースが増えてきた

当初は取材能力は人脈からして広島市近辺に限られ、広島市の広報や広島電鉄のニュース記事ばかりでした。 それが2・3年も根気よく掲載を続けているうちに、他県の読者にも知れてきました。またYAHOO!のような公的検索ソフトでトップになってからは、その地域の路面電車ニュースをメイルで頂くことが出来るようになり、次第に掲載範囲が全国区になってきました。


下のニュース記事は読者であった、当時兵庫県のH氏から頂戴したニュースを掲載しました。情報提供を受けてとても嬉しかったのを今でも覚えています。

#49
 ● 兵庫県も阪神地区を対象にLRTの整備構想を策定

1月3日付けの神戸新聞によると:

兵庫県は新年度より、かって完全に消えた路面電車を低床式LRTによる復活検討に入る。
場所は自動車交通の激しい阪神間エリアが対象地域である。

具体的には、学識経験者の意見も聴き、基本構想をまとめ、2000年度以降に具体的な導入都市を選定し、詳細な計画づくりに入る由。

(私見)
あの交通過密の阪神間にもLRT導入の想定がなされることが驚きである。 時代は変わったのだ。
中核都市の将来交通を考える場合には、今後の高齢化時代への対応、環境に優しいこと、そのうえ性能と建設運用コストとの優位等を想定した場合、自動的にLRTが有力候補になることが当然となったことの査証である。
LRT導入は、まさに時代先取りの新交通機関として認知されてきたとの感が深い。  がんばれ神戸!!





5


1999年6月8日

路面電車サミット’99 in 豊橋に出席 知友が広がった


サミットに出席すると知人の輪が広がる

1997年の岡山路面電車サミットや199年の豊橋路面電車サミットにと出席が増す毎に顔を覚え会話を交わす知友が増えてきた。この方達がみんな私のホームページへの情報・資料提供者になってこられて、このころは私製HPを越えみんなで作るホームページという気持ちになってきた。感謝。




サミット会議
  • 日時:1999年(平成11年)6月4日(金) 10:00〜11:30
  • 会場:ホテルアソシア豊橋
  • 主催者代表挨拶 全国路面電車愛好支援団体協議会・とよはし市電を愛する会会長 佐々木慎一
    開催地挨拶 豊橋市長 早川 勝
  • 全国路面電車愛好支援団体の活動報告
  • 全国路面軌道連絡協議会代表挨拶と事例 広島電鉄株式会社社長 大田哲哉
    事例発表 広島電鉄株式会社 車両課長 藤元秀樹
  • 建設省挨拶と報告 建設省道路局 道路経済調査室長 奥平 聖
  • 運輸省挨拶と報告 運輸省鉄道局 技術企画課長    白取健治
シンポジウム
  • 日時:同日 13:30〜14:50

                 ・・・・・・・・・・以下略


6


2001年11月

「鉄道趣味系 サイト案内」 にて紹介された


鉄道趣味誌にも掲載された

多くの人に読まれるようになってきた2001年(制作後4年後)鉄道関連のホームページ案内書「鉄道趣味系サイト案内」にて紹介されました。

同書は@部/汽車旅党 A部/現代・未来党 B部/歴史党 C部/学究党 D部/アクティブ党 E部/海外党 に分類されており、当館はA部の路面電車に分類されていました、なるほど。 

この路面電車に掲載された他のホームページは「日本路面電車同好会」と「市内電車いろいろ」が掲載されています。これら両ページは今も継続しています。頷けますね。





2007年6月10日

「路面電車を考える館」開設10周年記念誌を発刊


とうとうCD付記念誌発行まで

2007年をもって「路面電車を考える館」は10周年を迎えることになりました。
ホームページの宿命ですが、いつか当ホームページもプロバイダーとの契約を解除する日が来ます。その瞬間をもって皆さまにご提供し続けた情報と積み上げたデータベースは一瞬に消滅することになります。

 当館の10年に渡る既掲載情報はわが国、路面電車情報の書庫(アーカイブ)的価値ありとのご意見も頂戴しました。そこで、せっかく多くの方々の努力により集積された路面電車情報が永遠に消滅するのを避ける方法として、当日までの全コンテンツ2,850件を収めたCDを主体とする10周年記念誌を発行することに致しました。

刊行は2007年6月10日の路面電車まつりの日を期して発行することができました。このたび刊行出来ましたのは全国の支援者および情報提供者ならびに広島電鉄さまの絶大なご後援によるものです。深く感謝いたしております。 


  関連ニュース:路面電車を考える館〜開設10周年記念誌〜 (07/8)




2009年10月31日

広島市開催 初のLRT都市サミットに パネリストとして出演 


秋葉忠利広島市長からお声が掛かったので・・・

広島市居住時代には、路面電車その他市民活動にいろいろ秋葉市長さんと協力しあった故でしょうか、初のLRT都市サミットを広島市にて開催するに付き、パネルディスカッションに出演するように、との依頼がありました。根が出好きの故か引き受けてしまいました。

パネルディスカッションは順調に進み、閉会の挨拶が終わった直後、小生は挙手をして「どうしても発言したいことが残りました」
と申し出て、以下の発言をさせて頂きました。それは下の記事の次に記しております。この発言は後で褒められました。市民は発言自由でよろしいですね。(^^;)

上図のパネルディスカッションは左から富山森市長、豊橋佐原市長、広島秋葉市長、鹿児島森市長、太田広島電鉄社長、映画美術監督部谷さん、それと山根が右端です、熱弁を振るっています。(^^;)

山根生のどたんば発言

この2日間の討議で出なかった話は、「何故日本のLRT計画はプラン作成までで新線建設や延伸の実現が無いのだろう?」です。 この10年間わが国での実績はわずか富山市1都市のみ。欧米では10年前には新設が20都市もあったのでわが国は周回遅れだと思ったが、多数の市民活動の成果も空しく今は2周遅れではないか?」ということです。

フランス方式
をご紹介したいです。12年前東京で行われた世界のLRT国際会議で聴いた、フランスのある都市交通局長の説明を紹介しましょう。「当市ではLRT路線建設案が持ち上がると、
@官民総てから路線案をドンどん提案させる 
A案は片端から情報公開し、長所欠点をどんどん発言集めし、市民の討議材料とする。
B出尽くした頃には長所欠点はあるものの自ずから案の順位が決まってくる。
(実例表示ではバリエーションを含め15素案もあった) 
C出尽くした頃を見計らって市長がドンと決めて実行してしまう
 ・・市民も何となく納得する慣例になっている。

私はこのやり方をフランス方式と名付けましたが、今後日本でも採り入れてほしいのです。

次回2年後のLRT都市サミットを富山市が引き受けられたのは幸いでした。どうか富山サミットでは何故日本ではLRT新線・延伸が実現しないのかも討議して頂くよう、どうぞ富山市長さんお願いします。

  関連ニュース: LRTサミット 2009 in 広島 (09/10)




2010年4月

ホームページ制作13年間の経過と今後を考える 


  • 当ホームページの発足は1997年3月1日です。 本年3月1日にて開設満13周年を迎えました。よくぞ続いたものよと思うし読者の皆さまのおかげと感謝しております。
    特別に大したことをしているわけではありませんが、「路面電車・LRTが易しく理解され、21世紀には日本各地にある中堅都市の近代化・活性化に役立ち、活躍をしてもらいたい」という気持ちが支持されているのでしょうか、単に「継続は力なり」という結果でしょうか、ここまで到達することができました。

  • 心掛けていることは下記の3点です これは今後とも変わりません
    1. 楽しんで作る
    2. できるだけ判りやすいイラストや軽い画像を多用して、要点の理解をしやすくする
    3. コンスタントに情報をUPする

  • もう一つの特徴は、往々記事の最後に館主私見を書くことです。本文はあれだけ公正を期して書くのに、個人責任で公開するこのホームページ作りではそれだけでは物足りなくて、私見を書きたくなるのです。
    でも、「公正を期すると言いながら私見を書くのは矛盾しているのではないか?」と気になり、あるとき公開質問を出しました。多くの方から返信を頂き「どうぞ書いてください。読者にはそれが特徴を感じるのです」ということでしたので、続けています。

  • 13年間のアクセスカウントの統計です。 

    10周年の30万カウントを最高に、07年度、08年度、09年度とカウントが低下しましたが、基本的には冒頭記しましたようにBlog、ミクシイ、ツイッターといった新しい・作り易い情報伝達手段がすごく発達してきて、いまや個人の限られた時間内にタッチする路面電車・LRTの話題もすっかり伝達手段が拡散する時代に変化しました。
    もうひとつの大きなファクターは、富山市のLRT新設のような路面電車の熱狂的な話題が少なかったせいがありそうです。が、各地のLRT延長計画・新設の実現が滞っていることが低下に大きな関連があると信じています。もっとも、館主の情報発信能力の低下が原因でしょうか。

  • 情報をアップデートしたつどメンテ記録を取っていますが、13年間で936回でした。ということは通年5日に1回くらいでアップデートをしている勘定になります

  • 本日2010年3月1日現在掲載中の文章、写真、イラスト、地図を調べましたら総数は約4,200件でした。長い年月のお陰でいつのまにか出来てしまったようです。

  • アクセス数は初年度の年16,000件から始まって10年度はとうとう30万件のピークにまでまでになりました。発足後2・3年くらいから路面電車では代表的ページと紹介されるようになりましたが、これは飽きもせずコンスタントな掲載に努めた結果でしょう。それに応えて絶えず読んでくださる方々がいらっしゃるということであり感謝しています。

  • この13年間の変化を眺めますと上記の実例でお示ししましたように、初期には取材範囲は広電関連が多かったのは広島市発信ですから自然でしたが、まもなく多くの読者が全国というか、各地の路面電車情報・LRT情報を送ってくださるようになりました。それを選択し、情報源を確かめるなどして掲載するケースが増えました。このことがとても嬉しいことですし、助かります。またこの13年間で掲載情報に関してのさしたるトラブルも無くて経過出来たのは嬉しいことでした。

  • 13年間のニュースを改めて通観してみると、この期間にずいぶん路面電車・LRTの導入環境が変化したことを実感します。即ち、近年は国・自治体のLRTに対する支援・補助体制が整ってきました。それに呼応し1997年に熊本市電が超低床LRVを導入したのが変局点であったと思われます。それ以降は各都市にて続々と路線新設・延伸・結節点改善・低床LRV導入計画が持ち上がり、そのうち一部ずつは実行されています。近年最大のニュースはなんと言っても2006年4月・富山ライトレールの開通です。この成功が契機となりLRT新設機運はもう止まりそうもありません。公共的投資が厳しい時代にも拘わらずLRTに追い風が吹いているように思いますけど、昨年は民主党政権に変わり、事業見直し旋風の結果がLRT建設・運用にマイナスとなるか、逆にエコと高齢化対策の事業としてプラスに働くのか注意深く見守りたいと思います。

  • 読者は当館の特色として読者の理解を助けるため、各地の電車地図が制作掲載してあるとお気づきでしょうか?
    私の路面電車への関わりですが、1931年広島市街中に生まれました。就学前から付近を通る電車を眺め、乗せてもらうのが関わりの始まり。当時使用された乗車券(下記)が私の憧れで、近所のこども達で電車ごっこをしますが、これを模した児童用の乗車券を鞄に収め、お客に「はいどこまで?」と聞いてはチョンチョンとハサミを入れるのが悦楽でした。乗車券に画かれた路線地図に当時からすごく魅力を感じていたのです。キップの終点とは行ってみたい憧れの場所ですから。そういうことで、当時の少年の常識である運転手には憧れないで、路面電車の車掌になりたいが少年時代の最初の夢でした。
    これは広島電鉄の昭和一桁時代の片道乗車券(所有者探索中)。 路線網は今より若干少なく、当時は左官町(今の本川町)から横川行きが別れていた。 その後の新線は、十日市→江波の江波線と駅(広島駅)から的場経由御幸橋までの比治山線とが建設された。
    これは06年8月9日原爆ドーム前電停完成の記事のため作った広島市中心部の路面電車ネット図。昭和初期の路線と現在を比べると若干の延伸を見ているものの変化は案外少ないですね。それにしても、幼年・少年時代の地図好きが青年時代も、今の壮年(老年とは言いたくない)まで延々と続き、その趣向性向が今のホームページの地図制作にも受け継がれているのだと思います。ホームページ制作時は本文作りよりも地図制作時間の方が熱中します。

  • ホームページとBlogの違い(2007/3/24記)
    昨今はBlog作りが盛んです。勉強のために2006年に自分もやってみようと考え「路面電車のある風景」というページをGOOサイトに置いて試作してみました。判ったことは提供サンプルから選択出来るガイド方式で作るのは手軽である。サーバー使用料がタダでHD容量も大きい。これなら気軽に毎日でも作れるし、ムードとしては日記風が適しているなどなどよ〜く理解出来ました。私の場合一方でHP「路面電車を考える館」の制作を平生通り続けています。1ヶ月もすると悟ったことですが、「同一人がホームページとBlogを同時に制作することは困難である」ということでした。理由は、たとへ両方制作する作業量はこなせても、HPではコンテンツを[客観性重視で内容の真実性を充分チェックする。調べる]必要があるし、一方のBlogは[主観を重視し速くどんどん掲載する]ということで、結果は心理的に真反対のものは同一人では切り替えられない、ムリということでした。そういうことでBlogの制作は2ヶ月ほどで取りやめました。
    (↓2010/4/20追記)
    ツイッターは少量の文章を思いつくまま掲載するので、負担が軽く、これは案外ホームページ制作と両立するかもしれませんね。まだ開始する気がありませんけど。

  • 当館の将来はどこへ?
    当館の今後ですが・・ 自分でも確たることは知れません
    1. 館主は1931年12月生まれですからちょっと高齢になり、たぶん20周年記念日は難しいでしょう。(^^;) 毎日は元気気分ですが今後何があるかは判りません。むしろ気になるのは視力が減退してきて、「いつまで続けられるか?」が気がかりになり始めました。「来年末で80歳になるので、ひとつの節目かな」と思ったり、「いやいやこのホームページ作りこそ自分の元気の素。頭が、手が動く限りは続けなくては。日野原先生を見習え」と自分を励ましています。当分は大丈夫だろうと勝手に信じています。 

    2. 私見ですけど、ホームページとは本質的には知らぬ方に自由に見て頂くというのが特徴と思います。当館は写真・地図等のコンテンツ数が今は4200件と膨大になり、これなら関心者へのアーカイブとしての役割も貴重かと思い、旧い資料を削除することは避けています。実は私のホームページのコンテンツのご利用については、詳しくは路面電車を考える会紹介ページ下欄に記載していますが、館主制作品(作者名が記入していないもの)に限っての転載はご自由です。

    3. 前項にも記しましたように当館はこの13年間に掲載したものを削除しないで続けているのは、当館は日本の路面電車関連のアーカイブ(書庫)的役割もあろうかと自覚しているからです。その意義で、一昨年は全データを収録したCDを貼附した『「路面電車を考える館」〜開設10周年記念誌〜』を発行し、関係者各位に贈呈させて頂きました。

    4. 館主は路面電車を考える会の広報局長を担当しています。そういう立場から「会の広報・行事等の情報は最優先で掲載する。但し、路面電車に関連した情報を編集者の判断にて広く扱い掲載し責任も負う。プロバイダーとは個人契約にする」という約束で発足し、今日まで来ました。その故か記事について個人的主観的な見解をとかく述べております。メイル等によると同感の時と、そうかな?の時といろいろ有るようですね。それが特色のホームページということで上記の経緯もありお赦しくださいませ。皆さまのお声と多大のアクセス数を参考にして、今後も信頼されるサイトを第一として続けていくつもりです。

    5. 館主にとっても不安材料があります。それは館主が2007年夏に家庭の事情により広島市より兵庫県宝塚市に引越をしました。住む場所が変わっても全国的ホームページの立場からは技術的には基本的には変わりません。しかし居住地の変更は広島市を起点とした路面電車活動は広報的な役割に限定されてしまい、人と人の繋がりを主体とした顔を突き合わせての情報交換や意見交換が大層不自由になってしまいました。離れて3年近くも時間が経つと会の空気、行く先等がだんだん肌身的に判らなくなり、不安を感じているのが最近の現況です。

  • こういった経緯にあるホームページ「路面電車を考える館」ですが、できるだけの努力は継続しますので、今後とも宜しくご声援、ならびに、ホームページ内容・構成について改善ご提言の方もお願い致します。 m(_)m
      
        2010.4.21 山根 政則 (1931年広島市生まれ 被爆者) これを記す

  • 今全体を通読してみますとプロフィールと言うより、良いことばっかり情報になったみたい。ごめんなさい。m(_)m






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2015年7月13日

被爆体験記 「千の太陽よりも明るく」


                 

            千の太陽よりも明るく

                                               山 根 政 則

 私は広島市の中心部にある問屋街「横堀町」の昭和6年(1931年)に生まれ、都心にある本川小学校を昭和19年3月に卒業いたしました。その小学校は川を隔てて真正面に「産業奨励館」(後日、あの「原爆ドーム」と名称変更)に向かい合うという、今考えると怖ろしい場所にあったのです。

 原爆投下のあの日、昭和20年(1945年)8月6日には、私は広島県立第二中学校の二年生になっていましたが,通常の登校日が急遽勤労作業に振替えられ,現在の広島駅北、当時の東練兵場へ集合を命ぜられました。その練兵場は戦時下で食料が急迫し、なんとさつま芋に植え替えられた。その草取りの仕事でした。
 畠作業は大嫌いな皆んなですから,8時になってもすぐには作業にとりかかりません。おりしも一点の雲もない快晴の空に,かすかに爆音が聞こえ、東方より米軍の爆撃機B29が一機真っ直ぐにこちらをめざして飛んできました。何にでも興味を示したがる中学二年生はたちまち全員立上がり,そのB29の方を指しながら口々に何か叫んでいます。私は太陽がまぶしいので左手を顔にかざしながら目を凝らして機影を追いかけました。B29は単機で高度も相当高いところから機体をキラキラと光らせながらこちらめざして飛んできます。我々のいる地点よりだいぶ東寄りの位置まで来たとき,ポロリと黒いものを機体から離しました。「落した。落した」 皆が口々に叫びます。その物はあたかも鳥の糞の落下そっくりで,頭上を西方へすーと放物線を描きながら落ちてゆき、たちまち見失ってしまいました。これがあの原子爆弾そのものと知ったのは暫く後のことです。
 と,B29の方は爆弾を放り出すや否や信じられないくらいの急旋回で北方へと九十度方向転換し遁走を始めました。「曲った!曲った!」の声で皆んなは一斉に爆弾の落下方向を眼で追うことを止め,スピードアップしながら逃げる機影を追って首を西から北の方に向けたのです。これが,結果的には良かった。おかげで,閃光のために目が潰れないですんだのですから。

 飛行機が進路を北に向けてほんの数十秒経ったときか,頭の後ろのあたりがマグネシウムを焚かれたように轟然と光ったのです。「アチチチチチ」 熱線に焼かれた顔と左手に鋭い痛みを感じました。その瞬間は,側に立っていた友人の頬が太陽の直射下にもかかわらず、桃色の皮膚が紙のように真っ白に見えたのを覚えています。これこそ原爆の信じられぬ閃光の特徴なのです。「千の太陽よりも明るく」という言葉は正しいのです。

 その直後,市内から地を這うように伝わり襲ってきた爆風で芋畠に打ちつけられて失神してしまいました。数秒なのか?数分なのか? 気が付くと畠の畝の間にひれ伏して両手はしっかり両目を覆っていました。 広島では原爆のことを「ピカドン」と名付けました。最初に光、続いて大きな音が「ドン」と聞こえたからです。然し私の場合は距離が近すぎて(2km)、自分には光は記憶しているがドンの音の記憶はありません。頭上を見上げて驚きました。すぐ上を巨大な入道雲が覆っています。雲は静止しないでむくむく動き膨らみ、その部分々々の色が全部異なります。中心部の雲は原子核反応の余熱が残っているので赤い火球状です。(後日1万5千度だったと聞きました) その外の雲部分は暗紫色、更なる外は暗青色、更に外は灰色。中心の火球部はまだ明るいので、取り巻く雲を通して赤さが透けて見えています。それぞれの雲はむくむくとダイナミックに動きつつ色も変化し続けていきます。絶望的な気分のなか隣家の友人を捜しだし,二葉山南の尾長町から牛田東に通ずる低い峠越へに、牛田早稲田神社隣接の自宅へ帰ることができました。

 途中,峠の高度が徐々に高まって行くにつれ広島市中の惨憺たる情景が望見されました。もう市中あちらこちらから幾条かの黒い煙が薄く、すーっと上がり始めています。頭上の原子雲はずいぶん巨大化して,すっかり市全を覆い尽しています。その天辺の縁の部分は白く輝いているのです。この「原爆の凄惨なカラー動画」は被爆者しか見たことは無いでしょうね。

 途中、峠の高度が徐々に高まって行くにつれ、広島市中の惨憺たる情景が望見されました。市中あらこちらから行く城下の黒い煙が薄くすーっとあげ始め若干太くなっていきます。

 早稲田町に着くと、近所の藁屋根の農家が屋根に火がつき炎上中で、紅蓮の炎を上げていました。消す人は見当たりません。あまりにも怖ろしい体験をするとみんな腑抜けになっているのでしょう。 私は自宅に帰ると奇跡的にも両親,五人の兄弟は誰も市中に出なかったので無事であることを知り安心しました。 母親は私の顔をみるなり、「まあちゃんおおごとよ! この牛田に爆弾が落ちたんよ!」と目を張って言います。 私は「何を言っとるん。爆弾は広島の真ん中に落ちて、今峠から見たが広島じゅうが火事だらけよ。」と答えました。とにかく市民には原爆のスケールがあまりに巨大すぎて想像を越えたのです。自宅はといえば、爆風で母屋の屋根は全体が北側にずり上がっており、縁側をL字形に囲む総ガラスの雨戸はガラスが総て砕け、柱に突き刺さっています。庭の百年を経た黒松は都心を向いた南西側の葉が赤茶色に焦げて縮れています。私は母親から火傷の手当、・・・といっても薬がないのでごま油を塗られ、包帯を顔から背、腕にかけてぐるぐる巻きにされただけでした。

 しばらく休んで外に出てみました。被爆後幾らか経過した時ですが、市中からは火傷し、着衣や皮膚がボロボロになって垂れ下がったままの市民が続々避難をしてきます。この町は行き止まりの場所なので、多くの人が早稲田神社境内の樹木の下に休むというより倒れ込んで動かなくなっていました。そしてしきりに「水、水」の声がします。元気な大人が小声で「水をあげてはいけんよ。すぐ死ぬから」と囁くのです。なかでも、やかんの音が聞こえた途端身動きしないでいた人が腕だけをにゅっと延ばし「みずー」の声を聞きましたが、あの瞬間だけは忘れられません。

 翌日以降は当地にて行き倒れて息を引き取った人々を牛田公園にて荼毘に付すため、付近の大人が集められて作業に当たることになりました。父も連日奉仕に出かけましたが、帰宅後は「何も言いたくないよ」と言ったまま全く無言。父は亡くなるまでに遂に一回もその作業の状況の説明をすることはありませんでした。当時風向きによっては煙と臭いが公園方向から自宅までただよってきました。その記憶から数ヶ月間は、うちでは魚を食べることはしませんでした。あの臭いを思い出すのです。

 私は被爆日8月6日の前日の5日には昔の材木町、今の広島国際会議場のある場所で建物疎開作業をさせられていました。8月6日当日は一学年下の1年生が作業を受け持ったのですが、不運にも300人全員が一人残らず亡くなったのです。この一日の差は今も心の負い目になって今日に至っています。

 それから幾星霜。東京にずっと暮していた自分は,たまたま帰広して平和公園を訪れたとき,全く偶然に広島二中の原爆慰霊碑を見つけました。碑の裏に廻って,懐かしい先生方のお名前と級友Y君の名前,それからいつも牛田町から一緒に通学した一年生M君の名前を見つけたとき,ボロボロボロと両眼から涙が噴き出して止らなかったです。今でも慰霊碑を囲み水を湛えたあの池を見るたびに、「みずー」のあの声が必ず耳元に蘇るのです。

(付記) 
自分は原爆のことについては長年、文章に書いたことはなかったのです。それは思い出したくないし,触れたくもないという潜在意識が絶えず働いている故でしょう。
 私は原爆の出てくる映画は見ない、原爆に関する本も読まないことにしていました。唯一読んだ記憶があるのは、昭和30年代の出版でしょうか、ロベルト・ユンクというドイツのジャーナリストの書いた「千の太陽よりも明るく」という原爆の開発と使用のいきさつを書いた書物です。これでマンハッタン計画というものの存在を知りました。今も私にとってはこの本一冊で充分であると思っています。

 こんな私も被爆後10年以上経過した後は変化してきました。即ち原爆についての体験を知人・友人・そして若い人に求められるままに体験談として,意見も含めて努めて語るように心がけるようになりました。歳を取るに付けてますますこの傾向が激しくなってきたように思われます。それは「戦争の惨禍は体験しない時代の人に伝えて、戦争の怖ろしさを伝えるのが体験者の責務である」という風に変わってきたのです。広島市に在住したのは2007年までですが、70歳を過ぎてからは市の依頼で「原爆語り部」を務めるように超変化しました。

        私が語り部を務めるとき、最後に申し上げていた言葉は
        「戦争に『正義の戦争』というものは存在しない」でした。

2007年に一身上の事情で広島市から宝塚市に引っ越してきまして、本日に至っています。
 この記録も被爆の実体験をそういった意図で書かして頂きました。
 
----------- 2014.7.19 -----------

        (注)山根政則の被爆場所:広島市松原町:広島駅北側 距離:2km
           私の当時の自宅位置:広島市東区牛田早稲田1丁目1−2 距離:3km
           私の現在の住居:宝塚市


発言から